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法隆寺

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日本大百科全書(ニッポニカ)

法隆寺
ほうりゅうじ

奈良県生駒 (いこま)郡斑鳩 (いかるが)町にある聖徳 (しょうとく)宗総本山。斑鳩寺(鵤寺、伊可留我寺とも書く)、法隆学問寺などの異称がある。南都七大寺の一つ。

[里道徳雄]

歴史

草創の由来は、金堂の薬師如来坐像 (やくしにょらいざぞう)光背銘によると、用明 (ようめい)天皇が病気平癒を念じ、大王天皇(推古 (すいこ)天皇)と聖徳太子を召して造寺と薬師像の造立を誓願したが果たさず崩御した。推古天皇と聖徳太子はその遺命を受けて、推古天皇15年(607)に寺と薬師像を完成したという。これは『顕真得業口訣抄 (けんしんとくごうくけつしょう)』『古今目録抄』などにも「推古2年起工15年完成」とあって確かめられる。しかし、『東寺王代記』の記す崇峻 (すしゅん)天皇の代、『興福寺年代記』の推古7年説、『興福寺略年代記』の推古21年説など、建立年代をめぐって諸説がある。いずれにせよ、金堂の釈迦 (しゃか)如来三尊像が623年、聖徳太子逝去の翌年に造像されており、この年を下るものではない。太子は598年に播磨 (はりま)国の地50万代 (しろ)を法隆寺に施入、その後も606年に播磨国水田100町を施入、609年に270余町ずつ施納して経済的基盤を築いている。

 寺域は、太子が605年から622年まで住し政務をとった斑鳩宮 (いかるがのみや)の西に位置した。643年(皇極天皇2)蘇我入鹿 (そがのいるか)によって太子の子山背大兄王 (やましろのおおえのおう)が襲撃され斑鳩宮は全焼したが、法隆寺は類焼を免れた。しかし『日本書紀』によれば、670年(天智天皇9)落雷によって全焼したとあり、その後に再建された伽藍 (がらん)が現在の法隆寺伽藍とされる。この天智 (てんじ)天皇9年焼亡説に対し、『法隆寺伽藍縁起並 (ならびに)流記資財帳』やその他の法隆寺関係文書に火災記事がないところから、法隆寺再建非再建論争が起こり、大正から昭和にかけて、『日本書紀』に信を置く歴史学者と、様式論から立論する美術史学者の間で激論が展開された。しかし1939年(昭和14)の若草伽藍跡発掘調査などにより、現在では再建説が定説化している。それによれば、法隆寺草創の伽藍は、現在の伽藍から南東に位置する若草伽藍跡とよばれる地にあったとされる。同地から塔の心礎、金堂と塔の基壇の跡が発見されており、伽藍配置は塔と金堂が南北に一直線上に並ぶ四天王寺式で、中軸線は北より約20度西に傾斜(現法隆寺は西へ4度傾斜、16度の差がある)しており、斑鳩宮跡の方位とほぼ一致すること、また瓦 (かわら)は現在の複弁ではなく、飛鳥 (あすか)寺や四天王寺のように単弁の蓮華 (れんげ)文であったことなどが判明した。さらに1968~69年(昭和43~44)の金堂解体修理の際、金堂礎石が旧伽藍の焼けた礎石を流用したものであることが明らかになった。

 再建法隆寺は旧若草伽藍から北西に位置を変え結構を変更して建立されたが、再建年代は不明。しかし、711年(和銅4)に五重塔の釈迦涅槃 (ねはん)像などの塑像と中門の金剛力士像がつくられているので、金堂、五重塔、中門、回廊などは、持統 (じとう)天皇の代(在位686~697)には建立されていたとみられ、8世紀初頭には経蔵などの建立をみ、諸堂が完成されたらしい。

 739年(天平11)僧行信 (ぎょうしん)は斑鳩宮の跡に八角円堂の夢殿 (ゆめどの)を中心とする伽藍を建立した。これが今日、金堂・五重塔の伽藍を西院とよぶのに対し、東院とよばれる上宮 (じょうぐう)王院伽藍である。夢殿は現存の八角円堂中最古のもので、堂内には聖徳太子等身の御影 (みえい)と伝えられる本尊救世観音 (ぐぜかんのん)像を安置。行信の建立100年後、道詮 (どうせん)律師が堂の修復を果たしたので、堂内には行信僧都 (そうず)・道詮律師の坐像が並祀 (へいし)されている。

 その後、法隆寺は、925年(延長3)大講堂が焼失し再建された。諸堂の修理は数度に及ぶ。わけても鎌倉時代の修理は1219年(承久1)東院の舎利殿 (しゃりでん)・絵殿 (えでん)の拡張再建、1230年(寛喜2)の再建に近い諸堂の改造、あるいは西円堂、聖霊院 (しょうりょういん)、西室 (にしむろ)・三経院 (さんぎょういん)、東院礼堂 (らいどう)、東院鐘楼の再建などがあって伽藍の様相を一新するものであった。江戸時代には慶長 (けいちょう)大修理(1600~06)や元禄 (げんろく)大修理(1690~1707)が行われ、各堂の部材が取り替えられた。また1933年から53年にかけて法隆寺伽藍昭和大修理がなされ、建物はすべて解体修理し、改造部分を除いて建造当初の姿に復原された。この間、1949年1月に金堂壁画が焼失する不幸があったが、68年模写再現された。その後、大宝蔵殿が完成、綱封蔵 (こうふうぞう)伝来品ほか多数の寺宝を収蔵、展観されるようになった。

 聖徳太子が『三経義疏 (さんぎょうぎしょ)』(「勝鬘経 (しょうまんきょう)義疏」「維摩 (ゆいま)義疏」「法華 (ほっけ)義疏」)を作成し講じたことは有名であるが、この伝統はよく護持され、法隆寺は法相 (ほっそう)、三論、律、真言 (しんごん)の四宗兼学道場として南都の学問の中心に位置し、道詮をはじめ高僧が歴住し、倶舎唯識 (くしゃゆいしき)の学者を輩出した。1585年(天正13)の古図によると子院は62を数え、太子信仰の中心としても栄え、明治以降も聖徳太子奉賛会などの組織を通して維持管理されている。1950年太子の遺徳を表す意味をもって聖徳宗を開き、その総本山となった。

[里道徳雄]

伽藍・行事

法隆寺境内は西院伽藍と東院伽藍からなり、10余の塔頭 (たっちゅう)を擁している。伽藍の総門にあたる南大門左右には長い築地 (ついじ)塀が延びる。西院伽藍は五重塔が西に、金堂が東に並列する法隆寺式伽藍配置で、金堂、五重塔、中門と回廊部分は飛鳥時代の建築様式を伝える世界最古の木造建築である。回廊の外、東側には東室・聖霊院、妻室、綱封蔵、細殿 (ほそどの)、食堂など、西側には西室・三経院がある。東院伽藍は夢殿を中心として、礼堂、舎利殿・絵殿、回廊、鐘楼、伝法 (でんぽう)堂などからなる。これら建築物の多くが国宝、国重要文化財に指定されており、また堂内には貴重な仏像、絵画、工芸品を多く蔵し日本美術史の一大宝庫となっている。1993年(平成5)には、法隆寺地域の仏教建造物が世界遺産の文化遺産として登録された(世界文化遺産)。

 なお、明治維新後、法隆寺も衰退し、1878年(明治11)宝物の一部を皇室に献納して下賜金を受けた。これは法隆寺献納宝物とよばれ、現在は東京国立博物館に展示されている。

 おもな年中行事には、東院舎利殿で行われる舎利講(1月1~3日)、金堂修正会 (しゅしょうえ)(1月8~14日)、西円堂修二会 (しゅにえ)(2月1~3日)、お会式 (えしき)(3月22~24日)、夏安居 (げあんご)(5月16日~8月15日)などがある。修二会は薬師如来の前で修され、3日目夜の結願 (けちがん)に行われる追儺 (ついな)式は名高い。またお会式には聖霊院内に米粉でつくった鳥・花など華麗な供物が供えられ、聖徳太子を賛嘆する。

[里道徳雄]



世界大百科事典

法隆寺
ほうりゅうじ

奈良県生駒郡斑鳩(いかるが)町にある聖徳宗の大本山。法隆学問寺・斑鳩(いかるが)寺(鵤寺・伊可留我寺)ともいう。推古天皇・聖徳太子創建の七ヵ寺の一つ。南都七大寺あるいは十五大寺の一つに数えられた。伽藍は西院と,夢殿を中心とする東院の二つに区画される。1993年〈法隆寺地域の仏教建造物〉が世界文化遺産に登録されている。

歴史

創建については正史に明記がないが,《日本書紀》には606年(推古14)7月斑鳩寺に水田100町を施入したとある。金堂の薬師如来光背の銘文には推古15年(607)用明天皇の遺命によって,聖徳太子が創建したとするが,像の様式や銘文の用語により異論があり,確定的でない。ただ最初の法隆寺が推古天皇の時代に建立されたことは疑いない。太子の私寺として建立された当寺は,648年(大化4)に寺封300戸が施入され,678年(天武7)に支給は停止された。この間670年(天智9)に一屋余さず焼亡した。747年(天平19)の《法隆寺伽藍縁起並流記資財帳》には五重塔の塔本塑像や中門の力士像2体は711年(和銅4)に完成したと明記され,722年(養老6)には寺封300戸が施入されたが,727年(神亀4)には停止された。再建の伽藍の経済的地盤や方法についてはまったくつまびらかでないが,711年ころには今日みる西院の寺観が整備されたとする説が有力で,722年から一時期支給された封は,付属的な建物などの建立に用いられたとも解せられる。再建の寺構は,金堂・塔などを南北に一直線上に配置する様式を改め,これを東西に配置するいわゆる法隆寺式伽藍配置となった。738年(天平10)4月には永世施入の食封300戸が寄せられた。《法隆寺伽藍縁起並流記資財帳》によると,律・三論・唯識(法相)・別三論の4宗の宗団があって研究が行われていた。749年(天平勝宝1)7月には四天王寺など8ヵ寺とともに500町の墾田が認められた。

 923-925年(延長1-3)に講堂・僧坊の一部が炎上,11世紀以降は西円堂・綱封蔵・西室僧坊などが倒壊したり炎上したが,その多くは再興されて講堂の修理も行われ,また〈法隆寺一切経〉が勝賢や林幸らの勧進で整備された。鎌倉時代には後白河院・源頼朝の帰依もあったが,中期以降に顕真得業による太子信仰の高揚や慶政による修理が行われ,慶長年間(1596-1615)と元禄年間(1688-1704)の修理を経て,昭和大修理に至った。

 西院伽藍の東方に隣接する東院伽藍は上宮王院といい,八角円堂の夢殿と伝法堂・絵殿・舎利殿よりなる。夢殿は,643年(皇極2)蘇我入鹿の手により焼亡した太子の斑鳩宮(いかるがのみや)跡に,739年(天平11)僧行信により造営され,北魏様式の救世観音像を安置してあることにより著名である。夢殿の背後には馬道を中央にして二つに区別された舎利殿と絵殿がある。その後方にあるのが講堂に当たる伝法堂で,橘三千代の冥福を祈願して奈良時代に創建されたものである。昭和大修理に際して発掘調査が行われ,斑鳩宮の旧跡が認知された。平安時代に入り東院の復興に尽力したのは富貴寺道詮で,859年(貞観1)修理を施すかたわら水田を施入し,秦致真は1069年(延久1)に《聖徳太子絵伝》を描いて絵殿に納めた。鎌倉時代になると興福寺貞慶は釈迦念仏を始行したが,なかでも京都の西山法華山寺(松尾寺)の慶政は1219年(承久1)ころより舎利殿・夢殿・礼堂などを修造した。慶政は摂政九条良経の長子で関白道家の兄に当たる。慶政の当院再興は道家周辺の貴族を動かし,法隆寺への関心を高めるに至った。近世には,慶長・元禄年間に夢殿・舎利殿・絵殿・伝法堂をはじめとして回廊などが修理された。

 現在,1月7日から14日にかけて金堂で吉祥悔過(けか)の修正会が行われ,16日から3日間は夢殿で同じ修正会がある。西円堂では2月1日から3日間薬師悔過の修正会が修され,その結願に鬼追いの式が行われる。
[堀池 春峰]

文化財

法隆寺は現存する最も古い寺院として,また飛鳥時代から奈良時代にかけての文化財を,多数蔵していることで知られる。しかし,こうした聖徳太子創立以来の歴史を物語るにとどまらず,各時代の遺構,遺品も豊富で,時代の特色を反映するとともに,南都諸大寺の中でも特異な位置にあったことを示している。

建築

法隆寺は塔・金堂を中心とする西院伽藍と,夢殿を中心とする東院伽藍に分かれる。かつて西院伽藍は飛鳥時代の建築と考えられていたが,長い再建非再建論争の末(法隆寺再建非再建論争),670年に焼失後,再建されたものとの結論に達した。飛鳥時代,創建当初の伽藍は,現在の西院伽藍の南東方にわずかに塔心礎を残し,若草伽藍と呼ばれる。発掘調査により南北に並ぶ塔と金堂,北辺・西辺を限る柵や溝が確認され,いわゆる四天王寺式の伽藍配置をとっていた。一方,聖徳太子の斑鳩宮の故地に,その荒廃を嘆いた僧行信が,739年(天平11)寺をつくったのが現在の東院伽藍で,発掘調査により斑鳩宮の遺構が確認されている。

 飛鳥時代の建築は皆無だが,西院伽藍の中心は白鳳時代の建立になる。金堂,塔,中門,回廊が一連の計画のもとにひきつづき造営され,8世紀初めに竣功した。柱の胴張り(エンタシス),皿斗(さらと)つきの大斗,雲斗栱,反りのない一軒の垂木,人字(にんじ)形割束,卍(まんじ)崩しの高欄の組子などが特色で,その源流として2~7世紀の中国や高句麗の建築様式が考えられている。

 奈良時代では西院に,経蔵,もと政所の建物であった食堂(じきどう),東僧房である東室があり,東院には八角円堂である夢殿,もと橘夫人家の住宅であった伝法堂がある。このうち西院食堂は,もとは前面の細殿(ほそどの)を礼堂(らいどう)とする双堂(ならびどう)であった。また夢殿は鎌倉時代に大改造をうけている。平安時代の遺構では,西院の講堂,鐘楼,妻室,綱封蔵,羅漢堂がある。講堂は当初桁行8間で,後に9間に拡張され,また創建時,中門から延びて塔・金堂のみを囲っていた回廊も,鐘楼,経蔵とともに講堂と結ばれた。羅漢堂は近在の富貴寺から移されたものである。

 鎌倉時代には東室南の一部を改造し,聖徳太子をまつる聖霊院(造営は平安末,1284年(弘安7)全面改築),同様に西僧坊南の一部を改造した三経院,八角の西円堂,細殿,上御堂(かみのみどう),新堂などが西院に遺存する。また西院・東院間北側の宗源寺にはこの時期の四脚門がある。中世には大仏様(天竺様)や禅宗様(唐様)といった新しい建築様式が中国から導入され,従来の和様にもとり入れられるが,中世の法隆寺は興福寺支配下にあって,伝統的な和様の技法を守る工匠が携わったらしく,新たな技法,様式の導入はわずかしかみられない。室町時代以降は子院の本堂や表門等が目だつが,西院築垣が版築による築地として古例である。

彫刻

飛鳥時代の造立になる仏像は,金堂の釈迦三尊像,四天王像,夢殿の救世(ぐぜ)観音像,宝物館所蔵の百済観音像と,現在東京国立博物館にある小金銅仏群(四十八体仏)がある。釈迦三尊は聖徳太子とその妃のため,推古31年(623)止利仏師(鞍作止利)が造ったとの銘があり,四天王像は山口大口費(やまぐちのおおくちのあたえ)作の銘があって,以後の四天王像と像容をまったく異にする。救世観音と百済観音は対照的な作風で,前者が釈迦三尊などとともに北魏様式を示すのに対し,後者には南朝様式がみとめられ,同じ飛鳥時代ながら法隆寺を舞台に多様な展開があったことが知られる。なお金堂薬師如来は推古15年(607)造顕の銘を持ち,古拙な表現をとるが,金堂完成後の擬古作とする説もあり,その銘の信憑性が疑われている。

 白鳳時代を代表する仏像は,夢違観音の名で親しまれる聖観音像,橘夫人念持仏と伝える阿弥陀三尊像がある。唐代の,より完成した様式への接近をうかがわせる。また,金堂天蓋,天蓋上の飛天・鳳凰,薬師如来脇侍と伝える2体の観音像,六観音と俗称される愛らしい木造の菩薩像群などがあり,堂内荘厳のため造像された阿弥陀三尊および二比丘の鎚鍱(ついちよう)像(押出仏)もこの期のもの。奈良時代には西院伽藍の完成と前後して,711年(和銅4)五重塔初重の四面に塔本塑像が造られた。仏陀の生涯を立体的に表すもので,塔本塑像として完全に残るのはこれのみである。食堂の梵天・帝釈天像,四天王像は天平塑像彫刻の萌芽期を示し,金堂の吉祥天塑像(旧食堂安置)は奈良時代後期に盛行する吉祥悔過会との関連をうかがわせる。このほか西円堂の乾漆薬師如来像,夢殿の弥勒菩薩像,伝法堂の3組の阿弥陀三尊像などがあるが,この期の肖像彫刻として唐招提寺鑑真像と並ぶ行信像(夢殿)は特筆される。

 平安時代に入ると,法隆寺の文化財も密教や垂迹信仰の影響をうかがわせるものがあり,また中世以降盛んとなる聖徳太子信仰の最も早い例が現れる。金堂には吉祥天像,毘沙門天像,地蔵菩薩像がある。このうち地蔵菩薩は大御輪寺旧蔵で,当初は神像であったかと考えられる。講堂に10~11世紀の作とされる薬師三尊と四天王像,聖霊院には聖徳太子および侍者像が残る。鎌倉時代以降は彫刻に見るべきものが乏しく,もっぱら絵画にその中心が移るが,三経院の聖徳太子像,阿弥陀如来像,西円堂の十二神将像などがあげられる。

絵画,工芸

絵画・工芸においても,法隆寺は建築に劣らず多くの優品を伝えている。玉虫厨子は須弥座に描かれた釈迦の本生図で著名だが,伝存しない飛鳥時代建築の様式を知るうえでも貴重である。また扉や内部には押出仏による千仏像がはられている。金堂は西院伽藍中,最も早く完成し,壁画も和銅年間(708-715)以前に完成していたと考えられている。1949年の火災によって内陣長押(なげし)上の小壁を除き無残な姿となって取りはずされ,現在の壁面は模写である。壁面は外陣の大壁4,小壁8,長押上の小壁18,内陣長押上の小壁20面からなり,隈取による陰影法や浄土変相図の構成など,中国敦煌にみる初唐様式の影響がうかがえる。白鳳期の工芸としては,先述した阿弥陀三尊像を納める橘夫人念持仏厨子,唐伝来の蜀江錦が注目される。

 奈良時代には庭儀法要のさまをほうふつとさせる伎楽面,舞楽面,響銅(さはり)の金銅鉢,水瓶,また錫杖,柄香炉などの法具がある。百万塔はろくろ仕上げによる木製塔だが,恵美押勝の乱(764)鎮定後,十大寺に10万基ずつ分置されたもので,法隆寺のみに残った。最古の印刷物である陀羅尼を納め,塔にも工人名などを記す墨書がある。なお〈行信願経〉と呼ばれる法華経,大般若経が伝わり,盛唐の書体を受けついでいる。

 平安時代の《聖徳太子絵伝》は,太子信仰の遺品として最も早い一例だが,もとは東院絵殿に掲げられていたもので,現在は東京国立博物館に移されている。平安期の密教の浸透を示すものに,〈法華曼荼羅〉〈星曼荼羅〉があり,学問寺としての教学活動の成果を示すものには〈法隆寺一切経〉《三蔵法師伝》《大唐西域記》《維摩経義疏》などの聖教類が伝存する。鎌倉時代には仏像の造像に代わって仏画,曼荼羅の制作が盛んとなる。しかも中世にきわめて隆盛をみる太子信仰を反映する遺品が多い。また《維摩経義疏》《勝鬘経義疏》やいわゆる十七条憲法の版木などがある。
[山岸 常人]

法隆寺献納宝物

法隆寺の文化財のうち,国宝,重要文化財の指定を受けたものは,約200件に及ぶ。このうち61件が,東京国立博物館の法隆寺宝物館に保管されている〈法隆寺献納宝物〉である。明治維新後,神仏分離,廃仏毀釈で法隆寺も衰微し,宝物の修理や管理さえままならぬ状況となった。1871年(明治4)以後,古文化財保存の動きが現れ,75年に東大寺大仏殿において,正倉院,法隆寺の宝物を中心とする古美術博覧会が開かれた。このおり,法隆寺からも宝物を宮内省へ献上しようとの話がもち上がり(正倉院宝物は同年に政府管理となり1884年から宮内省管理となる),78年献納が決定した。第2次大戦後,皇室財産から国有と変わり,1964年には法隆寺宝物館が開館した。現在は300余点が保管陳列されている。

 法隆寺献納宝物は,仏像のみならず法具,什器など,飛鳥から江戸に至る各種のものが含まれている。しかしおもなものは飛鳥・白鳳期のもので,小金銅仏(いわゆる四十八体仏),伎楽面30点,金銅幡(ばん),灌頂幡,蜀江錦小幡,狩猟文錦褥(きんじよく),各種の法具,文房具など,金工,漆工,木工,染織の優れた美術工芸品からなる。正倉院宝物より一時代前の,しかもまとまって伝存した点においても,きわめて貴重である。
[上田 敬二]

[索引語]
聖徳宗 法隆学問寺 斑鳩(いかるが)寺 聖徳太子 夢殿 法隆寺式伽藍配置 慶政 上宮王院(法隆寺) 斑鳩宮 道詮 若草伽藍 救世観音 百済観音 夢違観音 橘夫人念持仏 百万塔 法隆寺献納宝物 法隆寺宝物館
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5. ほうりゅうじ【法隆寺】
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6. ほうりゅうじ【法隆寺】奈良県:生駒郡/斑鳩町/法隆寺村
日本歴史地名大系
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10. 法隆寺(ほうりゅうじ)[大和]【篇】
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12. 法隆寺(ほうりゅうじ)[近江]
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(c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ...
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国史大辞典
法隆寺に関する金石文・記録・文書などを抄録したもの。江戸時代中期の法隆寺中院の僧良訓が編集した。主として法隆寺に蔵せられる仏像・仏具・器物などの記文、古文書、 ...
23. 法隆寺裂
日本大百科全書
奈良・法隆寺に伝来した飛鳥(あすか)・奈良時代の染織品。その大部分は1876年(明治9)に皇室に献上された献納宝物品に属するもので、今日、東京国立博物館内の法隆 ...
24. 法隆寺献納舎利殿擬宝珠[図版]
国史大辞典
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25. ほうりゅうじけんのうほうもつ【法隆寺献納宝物】
国史大辞典
理により、法隆寺献納御物は国有となり、東京国立博物館に保管されている。同三十九年法隆寺宝物館が開館され、三百余件の品々が一堂に収納展示された。ただし、寺にゆかり ...
26. ほうりゅうじけんもつちょう【法隆寺献物帳】
国史大辞典
聖武天皇の遺品を法隆寺に奉献した際に添えられた目録・祈願文。原本は、もと法隆寺に伝わったが、いわゆる法隆寺献納宝物の一つとして、現在は東京国立博物館に蔵せられる ...
27. ほうりゅうじさいけんろん【法隆寺再建論】 : 法隆寺
国史大辞典
法隆寺再建論〕 若草伽藍の発掘は、現西院伽藍に先行する伽藍が存在したことを明らかにし、明治以来の法隆寺再建非再建をめぐる問題は、若草伽藍の確認によってほぼ ...
28. 法隆寺再建非再建論争
世界大百科事典
榲邨(すぎむら)(1834-1910)が《日本書紀》天智9年(670)4月条の法隆寺全焼の記事によって,創建法隆寺は同年に焼亡し,現在の西院伽藍は和銅年間(70 ...
29. ほうりゅうじ‐しき[ホフリュウジ:]【法隆寺式】
日本国語大辞典
〔名〕寺院の伽藍配置の形式の一つ。法隆寺の西院伽藍がその代表で、南面する中門から出た歩廊に囲まれた矩形の中庭に東に金堂、西に五重塔が並立する建て方。わが国独自の ...
30. ほうりゅうじしゃく【法隆寺尺】
国史大辞典
法隆寺に伝わる象牙の尺。聖徳太子の遺品と伝えられる。幅約二〇ミリ、厚さ約六ミリの矩形断面で、全長九寸八分(約二九七ミリ)。表面に一寸ごとに五寸までの目盛を刻み ...
31. ほうりゅうじ‐じゃく[ホフリュウジ:]【法隆寺尺】
日本国語大辞典
〔名〕法隆寺東院所蔵の奈良時代の古尺。聖徳太子の頃、初めて日本に渡来したものという。長さ・幅・厚さはそれぞれ二九・七センチメートル、二・八センチメートル、〇・八 ...
32. 法隆寺建物配置図[図版]
国史大辞典
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33. ほうりゅうじとういんえんぎしざいちょう【法隆寺東院縁起資財帳】
国史大辞典
それを明治十八年(一八八五)に法隆寺管主千早定朝が三冊に編んだ。そのうちの第一冊『法隆寺東院縁起』(法隆寺所蔵)の第四番の史料として、保安二年(一一二一)に法隆 ...
34. 法隆寺版
世界大百科事典
→寺院版 ...
35. ほうりゅうじ‐へきが[ホフリュウジヘキグヮ]【法隆寺壁画】
日本国語大辞典
奈良県法隆寺金堂内の壁に描かれた仏画。白鳳時代の作。外陣四面の大壁に四仏浄土図、八面の小壁(しょうへき)に一体ずつの菩薩図、さらに外陣頭貫上小壁(こかべ)一八面 ...
36. ほうりゅうじべっとうき【法隆寺別当記】
国史大辞典
法隆寺別当に関する記録。原本はもと法隆寺に伝わり、独立した三部の書であったが、元禄九年(一六九六)に修補した際に、一括して「別当記」と名付けたもの。修理の時に ...
37. ほうりゅうじべっとうしだい【法隆寺別当次第】
国史大辞典
歴代の法隆寺別当の次第を示し、その任期中に起った重要な出来事を記したもの。二種の伝本があり、ともに『法隆寺別当記』に含まれるが、(一)は承和年中(八三四―四八 ...
38. ほうりゅうじむら【法隆寺村】奈良県:生駒郡/斑鳩町
日本歴史地名大系
[現]斑鳩町大字法隆寺 矢田丘陵南麓の村。「大和志」によると、法隆寺村は町名一四、属邑四とある。法隆寺の西にあたる西里からは縄文中期の土器や石器が出土した。村域 ...
39. ほうりゅうじもんじょ【法隆寺文書】
国史大辞典
。 [参考文献]高田良信『法隆寺』一(『日本の古寺美術』一)、荻野三七彦「法隆寺の文書について」(石田茂作編『法隆寺秘宝』上所収)、同「太子史料の二三に就て」( ...
40. ほうりゅうじろんそう【法隆寺論争】
国史大辞典
している。→法隆寺(ほうりゅうじ) [参考文献]聖徳太子奉讃会編『法隆寺論抄』、足立康『法隆寺再建非再建論争史』、会津八一『法隆寺・法起寺・法輪寺建立年代の研究 ...
41. 法隆寺若草伽藍跡発掘実測図[図版]
国史大辞典
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42. ほうりゆうじあと【法隆寺跡】和歌山県:和歌山市/河南地区/中野島村
日本歴史地名大系
[現]和歌山市中之島 金剛山医王院と号し、真言宗古義で京都勧修寺(現京都市山科区)末であったが、現存しない。「続風土記」はもとは東方有本にあったが、正徳年間(一 ...
43. 法隆寺観音菩薩像
日本史年表
649年〈大化5 己酉〉 この頃 法隆寺玉虫厨子 成るか。 法隆寺観音菩薩像(百済観音) 成るか。  ...
44. 『法隆寺記補忘集』
日本史年表
1720年〈享保5 庚子〉 この春 良訓編 『法隆寺記補忘集』 成る(元文元年6月頃まで書き継がれる)。  ...
45. 法隆寺旧蔵金銅観音菩薩像
日本史年表
651年〈白雉2 辛亥⑨〉 この年 法隆寺旧蔵金銅観音菩薩像 成る(「辛亥年」銘)。  ...
46. 法隆寺金堂四天王像
日本史年表
650年〈白雉元(2・15) 庚戌〉 この頃 法隆寺金堂四天王像 成る(光背銘)。  ...
47. 法隆寺金堂釈迦三尊像
日本史年表
623年〈推古31 癸未〉 3・‐ 法隆寺金堂釈迦三尊像 成る(光背銘)。  ...
48. 法隆寺金銅薬師如来像
日本史年表
607年〈推古15 丁卯〉 この年 用明天皇のために 金銅薬師如来像 を造る(法隆寺薬師像光背銘)(一説、天智九年法隆寺罹災後の擬古作)。  ...
49. 法隆寺釈迦如来
日本史年表
628年〈推古36 戊子〉 12・15 法隆寺釈迦如来 ・ 脇侍菩薩像 成る(光背銘)。  ...
50. 法隆寺釈迦如来脇侍菩薩像
日本史年表
628年〈推古36 戊子〉 12・15 法隆寺釈迦如来 ・ 脇侍菩薩像 成る(光背銘)。  ...
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興福寺(国史大辞典)
奈良市登大路町にある法相宗大本山。南都七大寺の一つ。寺伝では「こうぶくじ」という。縁起によると、天智天皇八年(六六九)藤原鎌足の死去に際し、妻の鏡女王が鎌足の念持仏の釈迦丈六像などを祀る伽藍をその山階(山科)邸に設けたのに始まり(山階寺)、その子不比等によって藤原京の厩坂に移遷(厩坂寺)
東大寺(国史大辞典)
奈良市雑司町にある華厳宗の総本山。大華厳寺・金光明四天王護国寺・総国分寺などの別称がある。南都七大寺・十三大寺・十五大寺の一つ。東大寺の寺号は平城京の東方にある大寺を意味し、『正倉院文書』の天平二十年(七四八)五月の「東大寺写経所解案」に初見するが
法隆寺(日本大百科全書・世界大百科事典)
奈良県生駒(いこま)郡斑鳩(いかるが)町にある聖徳(しょうとく)宗総本山。斑鳩寺(鵤寺、伊可留我寺とも書く)、法隆学問寺などの異称がある。南都七大寺の一つ。草創の由来は、金堂の薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう)光背銘によると、用明(ようめい)天皇が病気平癒を念じ
龍潭寺(日本歴史地名大系)
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渭伊神社(日本歴史地名大系)
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恭仁京(世界大百科事典・日本大百科全)
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遷宮(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
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長谷寺(日本大百科全書(ニッポニカ))
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