ジャパンナレッジは約1500冊以上の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書」サービスです。
➞ジャパンナレッジについて詳しく見る
  1. トップページ
  2. >
  3. カテゴリ一覧
  4. >
  5. 歴史
  6. >
  7. 日本史
  8. >
  9. 戦国史
  10. >
  11. 徳川氏

ジャパンナレッジで閲覧できる『徳川氏』の辞書・事典・叢書別サンプルページ

日本大百科全書・世界大百科事典

日本大百科全書(ニッポニカ)

徳川氏
とくがわうじ

江戸幕府将軍家の姓。三河国 (みかわのくに)(愛知県東部)の戦国大名であった松平家康 (まつだいらいえやす)は、1566年(永禄9)暮れに松平姓を徳川と改姓した。このころ家康は三河一国をほぼ手中に収めており、この地盤を固め、家臣団の統制をしていくうえで自己の権威づけも必要であった。そこで朝廷に改姓の勅許を得、さらに従五位下 (じゅごいげ)三河守 (みかわのかみ)の叙任を受けて権威づけを行った。勅許を得て家康個人が徳川を称したため、しばらくのあいだ徳川を名のるのは家康1人であった点において、一族、家臣団統制にも有効であった。

[上野秀治]

改姓の根拠

家康の先祖は伝承によると親氏 (ちかうじ)という人物であった。親氏の先祖は新田義重 (にったよししげ)の末子義季 (よしすえ)で、義季は上野国 (こうずけのくに)新田 (にった)郡世良田荘 (せらたのしょう)徳川郷(群馬県太田市尾島町 (おじまちょう))に住んで徳川(または得川)を称したという。子孫の親氏は父有親 (ありちか)とともに諸国を流浪し、のち三河松平郷(愛知県豊田 (とよた)市)に住んで松平を称したといわれるので、松平氏初代の先祖の苗字 (みょうじ)を採用したことになるが、松平氏の祖先が新田氏であるか否かは明確でない。ともかく名族新田氏の分流、すなわち源氏であることを宣言したことによって、いっそうの権威づけがなされたとみられる。

[上野秀治]

江戸幕府の開府と徳川氏

家康は、豊臣秀吉 (とよとみひでよし)の死後、諸大名の対立を原因にして起こった1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いに勝利を収め、天下統一者となる。ついで1603年将軍宣下を受けて幕府を開き、さらに1605年には子の秀忠 (ひでただ)に将軍職を譲って、将軍職を徳川氏が世襲する体制を固めた。その当時、徳川氏を称する者は家康と秀忠、それに家康の末の男子3人に限られ、他の親族は松平氏を称していたし、また武士は徳川氏を名のることは遠慮し、農民・町人は原則として苗字を使用できなかったため、徳川の苗字は絶対的権威をもつことになった。

[上野秀治]

御三家の成立

徳川将軍家に跡継ぎを欠く状態になった場合、相続争いが生ずる可能性もあるところから、あらかじめ将軍家一族のうちで将軍の後継者となれる家柄を決めておくのが安全であった。その家は徳川姓を名のらせ、他の大名とは違って将軍家との血縁関係を明確にしておく必要があった。そこで成立したのが御三家 (ごさんけ)である。その祖はいずれも家康の子で、1600年から1603年に生まれた義直 (よしなお)、頼宣 (よりのぶ)、頼房 (よりふさ)である。義直は1607年に尾張国 (おわりのくに)(愛知県西部)を与えられ、のち名古屋城に住して61万9500石を領し、東海道を抑える雄藩となり、尾張家とよばれる。頼宣は1609年駿河 (するが)・遠江国 (とおとうみのくに)(静岡県)で50万石を領するに至り、1619年(元和5)紀伊和歌山55万5000石に移され、幕府の西日本における一大拠点たる大坂を援護する位置にあった。一般に紀州家とよばれる。そして頼房は1609年常陸 (ひたち)(茨城県)水戸 (みと)25万石に封ぜられて江戸北方の備えとなり、水戸家とよばれる。頼房はのち28万石に加増されるが、35万石になるのは3代目綱条 (つなえだ)の1701年(元禄14)である。この御三家は官位も将軍家に次いで高く、尾張・紀州家が従二位権大納言 (ごんだいなごん)、水戸家が従三位権中納言を極位極官とした。のち御三家より将軍となったのは8代吉宗 (よしむね)と14代家茂 (いえもち)(ともに紀州家)である。

[上野秀治]

将軍家光子弟の徳川姓大名

家康の子3人が徳川姓を称したのに続いて、2代将軍秀忠、3代将軍家光 (いえみつ)の子も嫡子以外は分家して徳川姓の大名となった。秀忠三男忠長 (ただなが)は1624年(寛永1)駿河、遠江、甲斐国 (かいのくに)(山梨県)で50万石を与えられ、駿河家とよばれるようになった。しかし、暴政を理由に1632年所領を没収され、翌年切腹し断絶した。家光の子綱重 (つなしげ)と綱吉 (つなよし)は、1651年(慶安4)それぞれ甲府、館林 (たてばやし)(群馬県)で15万石ずつ与えられ、甲府家、館林家とよばれ、さらに1661年(寛文1)10万石ずつ加増された。綱吉は1680年(延宝8)4代将軍の兄家綱 (いえつな)の後継者となったので館林家は消滅し、一方甲府家も、綱重の子綱豊 (つなとよ)(のち6代将軍家宣 (いえのぶ)となる)が1704年(宝永1)綱吉の養子となって消滅した。

[上野秀治]

御三卿の成立

8代将軍吉宗の子宗武 (むねたけ)、宗尹 (むねただ)は江戸城内に邸宅を与えられ、それぞれ田安 (たやす)家、一橋 (ひとつばし)家とよばれ、徳川を姓とし、1746年(延享3)10万石ずつ所領を与えられた。9代将軍家重 (いえしげ)の子重好 (しげよし)ものち同様の待遇を受けて清水 (しみず)家とよばれた。これを御三卿 (ごさんきょう)というが、江戸時代中期ともなると将軍家と御三家の血が遠くなるので、より近親の家をつくっておく必要があった。御三卿からのち将軍になったのは11代家斉 (いえなり)と15代慶喜 (よしのぶ)(ともに一橋家)である。既述の徳川姓の家でも、嫡子以外はすべて、松平姓を名のらせ御家門 (ごかもん)(御三家の分家をとくに御連枝 (ごれんし)という)に列せしめたり、他家の養子にした。

[上野秀治]



徳川氏(将軍家)/略系図[百科マルチメディア]
徳川氏(将軍家)/略系図[百科マルチメディア]

注:図では実子を|で、養子を‖で示した©Shogakukan


徳川氏(尾張家・紀伊家・水戸家)/略系図[百科マルチメディア]
徳川氏(尾張家・紀伊家・水戸家)/略系図[百科マルチメディア]

注:図では実子を|で、養子を‖で示した©Shogakukan


世界大百科事典

徳川氏
とくがわうじ

中・近世の武家。三河・常陸・因幡国の徳川氏があるが,江戸幕府の征夷大将軍家となった三河徳川氏が著名。三河徳川氏は清和源氏新田義重の子四郎義季にはじまるという。義季は上野国新田郡世良田郷徳河(現群馬県太田市,旧尾島町)を分与され,徳川(また得川)を称した。6代政義は新田義貞に従って本領をはなれ,親季・有親と諸国を流浪,親氏が三河国加茂郡松平郷(現,愛知県豊田市松平町)の松平信重の婿になり,松平氏を継いだ。松平7代清康が一時世良田を称したこともあるが,8代広忠までは松平氏であった。三河一国をほぼ統一した家康は,1566年(永禄9)に勅許をえて徳川に復姓したという。これらは近世の史書が一致して記すところであるが,すべてを真とはできない。鎌倉初期に徳川三郎義秀が《吾妻鏡》に散見するが,義季との関係は不明で同一人説もある。また松平郷の近世の伝承は,親氏は諸国流浪の氏姓定かではない旅人といい,家康は86年(天正14)に〈三位中将藤原家康〉と署名している(浜松市鴨江寺文書)。関ヶ原の戦に勝利をおさめた家康は,1603年(慶長8)征夷大将軍に任じられて江戸に幕府を開き,以後徳川氏は265年間将軍職を世襲した。江戸時代分家は三家,家門,三卿,庶流に分類された。家康の9子義直を初代とする尾張家,10子頼宣を初代とする紀伊家,11子頼房を初代とする水戸家が三家として宗家継承権を有したが,のち8代将軍吉宗の子宗武・宗尹と9代家重の子重好を各々初代とする田安・一橋・清水の三卿もこれに加えられ,その嫡流が本家とともに徳川を称した。家門は家康の次男結城秀康を初代とする越前松平家と秀忠の子保科正之(のち松平を称す)の会津家,庶流は以上の子弟のうち大名となったものをいい,近世までの分家とともに松平を称した。1867年(慶応3)15代将軍慶喜が大政奉還を行って幕府は崩壊し,隠居した慶喜にかわって田安家から家達が入って静岡70万石を領した。84年の華族令により本家は公爵,旧三家は侯爵,旧三卿は伯爵とされた。なお常陸徳川氏は同じく新田義季の子孫と伝え,近世秋田藩主佐竹家に仕えて徳川を称し続けた。
→松平氏
[新行 紀一]

尾張家

徳川三家の一つ。初代将軍徳川家康の九男徳川義直を祖とする。義直は1603年(慶長8)甲斐国を与えられ,ついで07年尾張国に転じ,諸大名の助役によって築かれた名古屋城に住し,のち木曾と美濃の一部を合わせ61万9500石の領地高を有し,東海道を押さえる雄藩となる。従二位権大納言を極位極官とし,紀州家と交替で江戸へ参勤した。10代斉朝以降将軍家や三卿より養子が入ることが多く,維新までに当主は16代を数えたが,当家より将軍になった者はいない。

紀州家

徳川三家の一つ。初代将軍徳川家康の十男徳川頼宣を祖とする。頼宣は1603年(慶長8)水戸に封ぜられ,09年駿河,遠江で50万石に加増され,19年(元和5)紀伊和歌山に55万5000石で入封した。紀伊国のほか伊勢国にも領地があり,大坂城を援護する位置にあった。当家5代吉宗が8代将軍となり,13代慶福(よしとみ)が14代将軍家茂となった。維新までに14代の藩主を数えた。従二位権大納言が極位極官。

水戸家

徳川三家の一つ。初代将軍徳川家康の十一男徳川頼房を祖とする。頼房は1609年(慶長14)常陸水戸25万石へ封ぜられ,江戸北方の備えとなる。22年(元和8)28万石に加増されたが,35万石になるのは3代綱条(つなえだ)の1701年(元禄14)である。通常江戸の屋敷に住まい,たまに国へ帰った。2代光圀(みつくに)は《大日本史》の編纂に着手し,大義名分を明確にしたが,この学問は水戸学と呼ばれて明治維新にも大きな影響を与えた。維新までに11代の藩主を数える。
[上野 秀治]

[索引語]
三河徳川氏 徳河 松平親氏 松平郷 三家 三卿 常陸徳川氏 新田義季 尾張家(徳川氏) 徳川三家 紀州家 水戸家
上記は、日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書サービス「ジャパンナレッジ」のサンプル記事です。

ジャパンナレッジは、自分だけの専用図書館。
すべての辞書・事典・叢書が一括検索できるので、調査時間が大幅に短縮され、なおかつ充実した検索機能により、紙の辞書ではたどり着けなかった思わぬ発見も。
パソコン・タブレット・スマホからご利用できます。


徳川氏の関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 2905
検索コンテンツ
1. 徳川氏画像
日本大百科全書
職を譲って、将軍職を徳川氏が世襲する体制を固めた。その当時、徳川氏を称する者は家康と秀忠、それに家康の末の男子3人に限られ、他の親族は松平氏を称していたし、また
2. 徳川氏画像
世界大百科事典
中・近世の武家。三河・常陸・因幡国の徳川氏があるが,江戸幕府の征夷大将軍家となった三河徳川氏が著名。三河徳川氏は清和源氏新田義重の子四郎義季にはじまるという。義
3. 德川氏(とくがわうじ)
古事類苑
姓名部 洋巻 第1巻 339ページ
4. とくがわし【徳川氏】画像
国史大辞典
霞会館諸家資料調査委員会編『(昭和新修)華族家系大成』、渡辺世祐「徳川氏の姓氏について」(『国史論叢』所収) (辻 達也) 尾張徳川氏  江戸幕府将軍家に血縁が
5. 徳川氏[文献目録]
日本人物文献目録
評す』三上参次『徳川氏三代の政策』植木直一郎『徳川氏の施政の張弛を評す』池田晃淵『徳川氏の辞官納地』-『徳川氏の氏姓「新田氏の氏寺信仰」を読みて』藤井万喜太『徳
6. 德川氏三家及三卿 (見出し語:德川氏)
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 1668ページ
7. 德川氏産土神 (見出し語:德川氏)
古事類苑
神祇部 洋巻 第4巻 476ページ
8. 德川氏紋 (見出し語:德川氏)
古事類苑
姓名部 洋巻 第1巻 533ページ
9. 皇族降嫁德川氏 (見出し語:德川氏)
古事類苑
禮式部 洋巻 第1巻 1233ページ
10. 徳川氏(尾張家・紀伊家・水戸家)/略系図[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
注:図では実子を|で、養子を‖で示した©Shogakukan
11. 徳川氏(将軍家)/略系図[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
注:図では実子を|で、養子を‖で示した©Shogakukan
12. 徳川氏 系図[図版]画像
国史大辞典
 仙千代 和子 (東福門院 後水尾天皇皇后 明正天皇母) 義直 (尾張徳川氏) 頼宣 (紀伊徳川氏) 頼房 (水戸徳川氏) 家継 吉宗 家重 家治 家斉 重好 
13. 徳川氏系図(著作ID:1010522)
新日本古典籍データベース
とくがわしけいず 
14. 徳川氏御系譜(著作ID:3636086)
新日本古典籍データベース
とくがわしごけいふ 
15. 徳川氏御世系草写(著作ID:387735)
新日本古典籍データベース
とくがわしごせいけいそううつし 系譜 
16. 徳川氏諡号考(著作ID:1090693)
新日本古典籍データベース
とくがわししごうこう 考証 
17. 徳川氏籏下士名(著作ID:1557400)
新日本古典籍データベース
とくがわしはたもとしめい 
18. 徳川氏船飾図(著作ID:4400307)
新日本古典籍データベース
とくがわしふなかざりず 船舶 
19. 德川氏時葵紋制 (見出し語:葵紋)
古事類苑
姓名部 洋巻 第1巻 506ページ
20. 德川氏許葵紋 (見出し語:葵紋)
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 1730ページ
21. 德川氏石奉行 (見出し語:石奉行)
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 649ページ
22. 德川氏外交文書用印 (見出し語:印【篇】)
古事類苑
外交部 洋巻 第1巻 644ページ
23. 德川氏産土神 (見出し語:産土神【篇】)
古事類苑
神祇部 洋巻 第4巻 476ページ
24. 德川氏大阪町奉行 (見出し語:大阪町奉行)
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 1335ページ
25. 德川氏大奥大上臈 (見出し語:大上臈)
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 830ページ
26. 德川氏大津代官 (見出し語:大津代官)
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 1525ページ
27. 德川氏過書奉行 (見出し語:過書奉行)
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 610ページ
28. 德川氏職員家督相續 (見出し語:家督相續)
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 74ページ
29. 德川氏大名課役 (見出し語:課役)
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 1680ページ
30. 德川氏家老 (見出し語:家老)
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 160ページ
31. 德川氏勘定奉行【篇】 (見出し語:勘定奉行)
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 471ページ
32. 德川氏京都所司代 (見出し語:京都所司代)
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 1255ページ
33. 德川氏奥向近習番 (見出し語:近習番)
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 767ページ
34. 德川氏近習番 (見出し語:近習番)
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 1107ページ
35. 德川氏牛車宣旨 (見出し語:牛車宣旨)
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 1ページ
36. 德川氏國持 (見出し語:國持[大名])
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 1675ページ
37. 德川氏公人朝夕人【篇】 (見出し語:公人)
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 921ページ
38. 德川氏郡代【篇】 (見出し語:郡代)
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 1465ページ
39. 德川氏家人 (見出し語:家人[武家])
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 68ページ
40. 德川氏家人揚屋入 (見出し語:家人[武家])
古事類苑
法律部 洋巻 第3巻 275ページ
41. 德川氏職員兼職 (見出し語:兼職)
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 130ページ
42. 德川氏蒙源氏長者宣旨 (見出し語:源氏長者)
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 1ページ
43. 德川氏大名參勤交替 (見出し語:交替【篇】)
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 1680ページ
44. 德川氏領國石高 (見出し語:石高)
古事類苑
政治部 洋巻 第3巻 997ページ
45. 德川氏大奥小性 (見出し語:小性)
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 833ページ
46. 德川氏小性衆 (見出し語:小性衆)
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 747ページ
47. 德川氏大奥小上臈 (見出し語:小上臈)
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 830ページ
48. 德川氏小人【併入】 (見出し語:小人[職名])
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 986ページ
49. 德川氏小人頭 (見出し語:小人頭)
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 986ページ
50. 德川氏細工所 (見出し語:細工所)
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 694ページ
「徳川氏」の情報だけではなく、「徳川氏」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶

徳川氏と同じ戦国史カテゴリの記事
山崎の戦い(日本大百科全書(ニッポニカ))
1582年(天正10)6月、本能寺の変のあと、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が山城国山崎(京都府乙訓郡大山崎町)で明智光秀を討った戦い。本能寺の変の起こったとき秀吉は、毛利輝元の部将清水宗治の備中高松城を水攻めにしていた。信長の死を知った秀吉は、それを秘して毛利氏と講和を結び、2日後には姫路城に戻って軍備を整え
本能寺の変(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
天正十年(一五八二)六月二日、明智光秀が京都四条西洞院の本能寺に織田信長を急襲して自刃させた反逆事件。備中高松城を囲んでいた豊臣秀吉からの戦況報告で織田・毛利両軍の全面的対決を決意した信長は五月十七日、徳川家康の供応にあたっていた光秀にも出陣を命じた。すぐに光秀は本拠近江坂本城に帰り
応仁の乱(日本大百科全書(ニッポニカ))
1467年(応仁1)~1477年(文明9)の11年間にわたり、細川勝元と山名持豊(山名宗全)とをそれぞれの大将として、諸国の大・小名が東西両軍に分属し、京都を主戦場として戦った大乱。応仁・文明の乱ともいう。乱の原因 室町幕府は基本的には、守護領国制を基盤とする有力守護大名の連合政権的性格
川中島の戦い(日本大百科全書(ニッポニカ))
戦国時代に甲斐の武田信玄と越後の長尾景虎(後の上杉謙信)とが、信州川中島で北信濃の領有をめぐり数度対戦した合戦の総称。合戦は1553年(天文22)から1564年(永禄7)の長期にわたって行われ、おもな対戦だけでも1553年、1555年(弘治1)、1557年、1561年(永禄4)、1564年の5回
文禄・慶長の役(国史大辞典)
文禄元年(一五九二)から慶長三年(一五九八)にかけ、豊臣秀吉が明征服をめざして朝鮮に侵略した戦争。この戦争の呼称について、朝鮮では当時の干支をとって「壬辰・丁酉の倭乱」と呼び、明では日本が侵入した明の辺寨(朝鮮)をおさえるという意味で、「万暦朝鮮の役」と呼ぶ
戦国史と同じカテゴリの記事をもっと見る


「徳川氏」は日本の歴史に関連のある記事です。
その他の日本の歴史に関連する記事
五・一五事件(日本大百科全書・世界大百科事典)
1932年(昭和7)に起きた海軍青年将校を中心としたクーデター事件で、血盟団事件の第二陣として計画されたもの。1931年の十月事件失敗後、海軍青年将校は井上日召(にっしょう)らと結んでクーデター計画を進めてきた。32年の血盟団事件で団員が検挙されると
元寇(日本大百科全書・国史大辞典・世界大百科事典)
鎌倉時代のなかば、1274年(文永11)と1281年(弘安4)の2回にわたり行われた蒙古(もうこ)(元)の日本侵略。文永の役(ぶんえいのえき)・弘安の役(こうあんのえき)、蒙古襲来ともいい、当時は蒙古合戦、異国合戦と称し、元寇の語は近世以後定着した。
承久の乱(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
承久三年(一二二一)後鳥羽上皇とその近臣たちが鎌倉幕府を討滅せんとして挙兵、逆に大敗、鎮圧された事件。大義名分論、順逆論の立場からは「承久の変」ともいい、第二次世界大戦中はほとんど「変」に統一されたが、中世以来、乱・合戦などと称する方がむしろ一般的で
治承・寿永の乱(国史大辞典)
治承四年(一一八〇)に始まり、約十年間にわたり全国的に展開された戦乱。平清盛を中心とする平家一門の武断的独裁政治に対する旧貴族・寺院・地方武士など諸勢力の反撥をきっかけに勃発し、源頼朝の武力による戦乱の終熄に至るという経過をたどったため、表面上は源平
平治の乱(世界大百科事典・日本国語大辞典)
1159年(平治1)に起こった内乱。保元の乱に勝った後白河天皇は1158年(保元3)に退位して院政をはじめるが,その間に院近臣や武士のあいだに権力争いがはげしくなっていた。院権臣の信西(藤原通憲)と藤原信頼とは互いに権勢を競って対抗し,とくに信西が信
日本の歴史に関連する記事をもっと見る


ジャパンナレッジは約1500冊以上(総額600万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のインターネット辞書・事典・叢書サイト」です。日本国内のみならず、海外の有名大学から図書館まで、多くの機関で利用されています。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶