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寺院建築

ジャパンナレッジで閲覧できる『寺院建築』の国史大辞典・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

寺院建築
じいんけんちく
仏教寺院に属する建築。ただし寺院内にあっても、鎮守とその付属建物は神社建築として扱い、書院・客殿などの居住用建物は住宅史で取り上げている。しかし、居住用建物でも、僧房・庫裏など仏教寺院独特のものは含む。仏教は六世紀の中ごろ伝来し、大陸の建築様式を伝えた。それまでの日本の建築は、掘立柱で、板敷の床を張り、壁は板か草で、柱上に直接桁・梁をおき、直線の垂木をかけ、切妻造草葺の屋根をのせ、木部は白木のままで彩色を施さないものであった。これに対し、大陸の建築は、基壇を築き、礎石を据え、柱は礎石上に立ち、床は土間、壁は土壁、柱上に組物をおいて桁・梁をのせ、反った垂木をかけ、屋根は寄棟造か入母屋造を主とし、瓦葺で反りがあり、木部に彩色を施し、要所に飾金具を打ったものであった。

〔古代〕

仏教伝来の当初は住宅内に仏像を安置して礼拝していたが、崇峻天皇元年創立の飛鳥寺(法興寺)により、はじめて伽藍の整った寺院が出現した。これに続いて法隆寺・四天王寺が、また七世紀の中ごろには山田寺・百済大寺が、さらに七世紀の後半には川原寺・薬師寺などの創立があり、大和以外の地方でも多くの寺院が建てられ、今日七世紀の寺院跡と認められるものは、全国で二百近くに達している。和銅三年(七一〇)平城京に都が遷されると、元興寺(法興寺)・薬師寺・大安寺・興福寺は新都に移され、東大寺・西大寺などが創立され、氏族の私寺も京内に建てられて、咲く花のにおうがごとき盛観を呈した。当時、大和だけでも百に及ぶ寺院の存在が認められるから、全国では国分寺をはじめとし、数百に上る寺院が存在していたものと思われる。七、八世紀のこれらの寺院は平地に寺地を占め、築地で限り、四方に門を開き、塔金堂僧房(坊)等院・大衆院・倉垣院・苑院・花苑院・賤院などからなっていた。塔金堂僧房等院は寺の中心となる部分で、釈迦の骨をまつる塔婆、本尊を安置する金堂(仏殿)、経を講ずる講堂、経を収納する経蔵、時をしらせる鐘を釣る鐘楼、僧の住房である僧房などからなり、塔・金堂は回廊で画され、前に中門を開く。東大寺・大安寺・西大寺などでは塔は南方に離れ塔院として独立している。大衆院は食堂ならびに大衆院とも呼ばれ、寺内僧侶の生活を支えるための食堂・温室(浴室)とその付属建物および寺務所である政所(大庁・庁屋)からなる。大寺院では食堂院・温室院・政所院がそれぞれ独立しているものもある。倉垣院(正倉院)は寺の財物を蔵する倉のあるところ、苑院は寺僧の副食物である野菜を栽培する畠、花苑院は仏に供える花を植える花畠、賤院は寺院所有の奴婢を居住させるところである。塔金堂僧房等院は平城京では寺域の西南部に、大衆院・倉垣院・苑院は北部に、賤院は東北部にあり、花苑院は南大門外にあった。これらのうちの主な建物は原則として唐の様式をそのまま伝えたものであるが、唐では放射状の垂木が普通であったにもかかわらず、日本では平安時代までのものも含めて、放射状垂木は四天王寺講堂の一例しかないところからみて、唐様式の採用にあたっては、かなりの選択が行われたものと推測される。この八世紀に用いられた様式はその後長く日本建築様式の基本となり、日本化し、鎌倉時代に新たに伝来した宋の様式に対し、和様と呼ばれる。これら南都六宗寺院の遺構は、法隆寺・法起寺・薬師寺・東大寺・唐招提寺・新薬師寺・栄山寺・当麻寺などにあり、模型的な小塔は海竜王寺・元興寺に遺っているが、すべて大和に限られている。南都六宗の寺院でも、崇福寺(滋賀)・室生寺(奈良)のように山地に建てられたものもあったが、平安時代に伝来した天台・真言の二宗は延暦寺・金剛峯寺のように、山地に伽藍を設けた。これらは静かな山地での修行を重視するものであったから、初めは檜皮葺の草堂的なもので、両寺の景観が整ったのは創立後約百年の十世紀の初めであった。平安京は平城京と違って、羅城門内の左右に東寺・西寺を建てただけで、京内に寺院を建立することはなかったが、密教の宗勢が盛んになるにつれ、九世紀の終りから十世紀の初めにかけて、大覚寺・仁和寺・醍醐寺などの勅願寺が都の近くに創立され、伽藍も平地に営まれるようになった。密教の寺院には多宝塔・三昧堂・灌頂堂・五大堂・護摩堂など、奈良時代には見られなかった建物があり、多宝塔はそれまでの層塔とは全く変わった塔形をもっていた。また金堂の前に礼堂を付設することが多くなり、次第に金堂と一棟となって、奥行の深い堂となり、名称ものちには本堂と呼ばれるようになった。さらに、常行三昧堂が、平安時代後期に流行した阿弥陀堂の祖形であったことも重要な点である。十世紀の終りから十一世紀にかけては藤原氏による造寺が盛んで、法成寺・平等院などの諸寺が建てられた。十一世紀から十二世紀にかけての院政時代には皇室関係の寺が加茂川の東の白河や、洛南の鳥羽に続々と建立され、法勝寺をはじめとする「勝」の字のつく寺名をもつ六つの寺は六勝寺と総称された。これらの寺は池を中心として堂塔を建てた、いわゆる臨池伽藍で、金堂・講堂などはあるが、阿弥陀堂が特に重視された点に特徴がある。初期の密教寺院の建築は一つも遺存せず、天暦五年(九五一)の醍醐寺五重塔がもっとも古い遺構であるが、阿弥陀堂としては平等院鳳凰堂(天喜元年(一〇五三))をはじめとし、十二世紀のものは中尊寺金色堂(岩手)・白水(願成寺)阿弥陀堂(福島)・富貴寺大堂(大分)などが残っており、当時盛行した九体阿弥陀堂も、浄瑠璃寺本堂(京都)が現存する。なお多宝塔としては平安時代末の金剛寺多宝塔(大阪)がある。これらの遺構はすべて板張りの床をもち、野屋根が設けられ、組物が簡素化されたものが多く、寺院建築の日本化を示している。

〔中世〕

鎌倉時代の初頭に行われた東大・興福両寺の再建のうち、興福寺は伝統的な和様を用いたが、東大寺は大勧進重源の意向により、宋の、当時揚子江付近で行われていた建築様式を輸入採用した。これを大仏様(天竺様)という。大仏様は貫を多用して軸部を固め、挿肘木で軒を支え、太い虹梁と束で小屋組を形成して構造的な美しさを見せ、また桟唐戸・木鼻による装飾的な面を持っていたが、あまりにも豪放な様式であったため、建永元年(一二〇六)重源の死後は和様のうちに吸収されてしまい、遺構としては東大寺南大門・浄土寺浄土堂(兵庫)などを残すにすぎない。しかし、その後、大建築が建設されるにあたってはその構造的利点が生かされ、方広寺大仏殿などにも用いられている。鎌倉時代に伝来した禅宗は次第に盛んになり、京・鎌倉の五山をはじめ、多くの禅寺が鎌倉時代中期から南北朝時代にかけて全国に創立された。禅宗は建築の面でも宋風を移すことを理想としたので、宋の正統的な建築様式を輸入した。これを禅宗様(唐様)という。禅宗寺院は山麓の傾斜地に占地し、左右対称の伽藍配置をとり、三門・仏殿・法堂(はっとう)を中軸線上におき、回廊が三門左右から出て仏殿に達し、これに接して僧堂・庫院(くいん)を建て、三門前方左右に浴室と東司(とうす、便所)を設け、法堂後方に住持の住居方丈を建てる。三門は南都六宗寺院の中門、法堂は講堂にあたり、庫院は寺務所兼炊事場、僧堂は衆僧が居住し、坐禅を行う堂である。浴室や東司が七堂伽藍のうちに数えられるのは禅宗独特で、このほか開山堂が特に重んじられた。塔は必須ではないが、実際はかなり建てられ、伽藍より少し離れた所にある。建物は方丈を除き床を張らず土間とし、軸部に貫を多く用い木鼻をつけ、組物は詰組で、垂木は扇垂木とし、桟唐戸・花頭窓を用いる。総じて立ちが高く、木割が細(ほそ)く、整然とした様式で、その装飾的細部はたちまち和様のうちに採り入れられ、この禅宗様化した和様が、近世の華麗な様式を生む基盤となった。禅宗伝来当初の遺構は一つもなく、鎌倉時代末の善福院釈迦堂(和歌山)・功山寺仏殿(山口)が最も古く、禅宗建築の代表である東福寺三門・僧堂、円覚寺舎利殿をはじめ、禅宗建築の遺構、たとえば安楽寺八角堂(長野)、永保寺観音堂・同開山堂(岐阜)、正福寺地蔵堂(東京)、不動院金堂(広島)などはみな南北朝から室町時代のものである。これらは大陸様式そのままではなく、かなりの日本化のあとが見られる。南都六宗の建築は東大・興福両寺再建に続く南都六宗復古の機運に乗じて盛んに修造再建が行われ、興福寺・法隆寺・薬師寺・唐招提寺などに鎌倉時代中期までの南都和様の優作を多く残している。また密教寺院も前代に引き続き隆盛で、礼堂を付加した奥行の深い大規模な本堂が、地方勢力の勃興に伴い、鎌倉時代中期から室町時代にかけて盛んに建立され、大善寺(山梨)・西明寺(滋賀)・明通寺(福井)・観心寺(大阪)・鶴林寺(兵庫)・浄土寺(広島)・太山寺(愛媛)などの秀作が多く残っている。これらのうち西明寺・明通寺のものは和様であるが、ほかは大仏様や禅宗様を採り入れた和様で、折衷様と呼ばれるものである。中世の禅宗建築は新様式の伝来により多彩な動きを示したが、室町時代の中ごろからは次第に衰えてゆく。

〔近世以降〕

戦国時代に衰えた寺院建築は戦乱の終息に伴い次第に活気を呈し、特に近畿では豊臣秀頼によって多くの寺院の再建修造が行われている。注目すべきことは鎌倉時代に起った浄土宗・浄土真宗・日蓮宗などが中世末期に勢力を延ばし、近世に入って大伽藍を造営するようになったことである。現存するものでは京都の東西本願寺・知恩院、石川県の妙成寺などが代表的なもので、宗祖をまつる祖師堂や大師堂が本堂と並び、本堂よりむしろ大きくなっている。浄土宗・浄土真宗では塔を建てないが、日蓮宗は五重塔を建てた。近世寺院の建築は禅宗が大徳寺・妙心寺・瑞竜寺(富山)などに見られるように禅宗様を守った以外は宗派による差はほとんど認められないが、浄土宗では禅宗様の色彩が濃い。江戸時代には黄檗宗が明・清の様式を伝えたが、一般に影響を及ぼすには至らなかった。明治維新以後、寺院建築は全く振るわなくなったが、明治三十年(一八九七)の古社寺保存法以来、古い寺院建築の保護が計られ、修理事業と研究とが盛んになり、第二次世界大戦までの建築史の大半は寺院建築の研究で占められていた。
[参考文献]
天沼俊一『日本建築様式の研究』、太田博太郎編『日本建築史』(『(新訂)建築学大系』四ノ一)、伊藤延男・太田博太郎・関野克編『(文化財講座)日本の建築』
(太田 博太郎)


世界大百科事典

寺院建築
じいんけんちく

仏教のための建築群で,本来は僧尼の組織を伴う。仏教がインドで成立した当初は,仏陀を中心とした僧団の住舎に大衆集会の広場をもち,サンガーラーマsaṃghārāma(僧園,衆園(しゆおん)),アーラニヤāraṇya(寂静処)などと呼ばれた。後,仏陀の墓を示すストゥーパstūpaを中央に置き,周囲に僧房がある形となる。さらに中央堂の上をストゥーパとし,室内に仏像をまつる形ができた。これが中央アジアを経て後漢代(1~3世紀)に中国に伝えられた。塔殿と僧房その他を有する建築群に官衙(かんが)や宮宅の形が応用されて,官庁の意である寺という呼び方が使われ,外来宗教(今日ではキリスト教を除く)の施設が寺と呼ばれた。院は障壁で包まれた一部の意で,寺の一部分を指したものである。迦葉摩騰(かしようまとう)が白馬に経典を積んで来って初めて漢に仏典をもたらし,外客接待施設の鴻臚寺に入り,後に仏寺を建立して白馬寺と呼ばれたという説話がある。仏陀をまつるところを指す浮屠祠(ふとし)の名は後漢代から,学舎の意の精舎も魏・晋代(3世紀)から用いられた。南北朝(5~6世紀)ころから浮屠は仏塔のみを指すようになり,寺院全体はsaṃghārāma,āraṇyaの音を移した僧伽藍(そうぎやらん)(僧伽藍摩ともいう),阿蘭若などとも呼ばれ,また伽藍,蘭若などと略称されることが多くなった。

形態と機能の変化

インドは乾季と雨季が明確で,乾季には広場で儀式や集会が行われ,雨季には僧房で安居の行をし,また仏陀を礼拝するのが伽藍のおもな機能であったが,中国では雨雪や極寒期もあって,一山大衆を屋内に収容し儀式や教学の集会を行う必要が生じた。そのため大面積の建築をもつ官衙(寺)や宮宅の建築群が教団に応用されるようになった。

伽藍配置の原形

官衙や宮宅は南面し,中心部に内庭があり,その北に正殿を置いたり,3方から内庭を囲む三合院形をとった。内庭中央に高層の塔殿を置くことが初期伽藍の通例となったと思われる。やがて塔殿が仏塔と仏像をまつる殿堂に分離し,塔を中心前面に置く配置の先駆となったであろう。複数の塔をもつ伽藍も南北朝には現れたらしい。仏に対する儀式は塔や仏殿前の広場で庭儀として挙行され,僧の集会は大殿の中で開かれた。時刻や法事を告げる鐘鼓の楼,経典を安置し拝礼する経楼を置く。これらの聖域をめぐって回廊や築地塀を造り,四方に門を開いた。最外周に頑丈な塀をもつのは中国の官衙,宮宅の通例をうけたものである。全体にも個々にも宗教建築としてのシンボル性,崇高性,威厳,華麗さが求められた。

教団の建築

寺院の教団としての財政基礎が,個々の僧の乞食行によらず寄進された荘園領経営によることになると,管理機構が大きくなり,政所,倉庫が設けられる(政所院)。当然,施入物,什物,資財の倉や監理所(正倉院)も置かれ,仏寺機構は官衙と類似する。食作法や炊事の食堂院,清浄のための浴室(温室)や厠(かわや),法衣や建築物の維持管理,仏像仏画の製作や経典書写の作業所,花果蔬菜の苑院や花園院,雇民や奴婢の賤院など,寺地と施設を備えるようになった。このような多角的機能を備える内容と形式が朝鮮三国を経て日本に伝えられた。一方,インドでは塔の基壇が階段状に拡大する傾向も生じ,これらを別の堂や僧房で取り囲む形式ができて南方諸国などに伝わった。曼荼羅など中心性強調の構図と互に影響して発達し,ヒンドゥー教寺院にも影響を及ぼした。
→寺院
[沢村 仁]

インド

仏教の比丘,比丘尼は遊行僧とも呼ばれるように,元来は定住せず伝道の旅を続けたため,住房を必要としなかった。ただし旅行が不可能な夏の雨季には仮小屋を建て,一時的に共同生活を送った。都市の近郊では富裕な信者が林園を提供した。これが衆園(しゆおん)saṃghārāmaであり,音訳の僧伽藍摩は伽藍の語源となった。衆園には仮小屋とともに常設的な建物も寄進された。やがて定住者の修道院としての機能や組織がととのえられてゆくが,この傾向はすでに釈迦在世中から見られるらしい。ビハーラとは比丘の住房を指し,後に語義が拡大されて僧院とか精舎を意味するようになった。釈迦在世中の僧院として祇園精舎や竹林精舎などの名が文献上知られるものの,その実態は明らかでない。ただラージギル(ラージャグリハ)では,釈迦時代の名医ジーバカが寄進したというマンゴー園の精舎の遺構とされるものが発掘された。これにはストゥーパや祠堂(チャイティヤ堂)はもとより比丘の個室にあたるものもみられず,後世の僧院とはまったく様相を異にする。

 僧院とともに伽藍を構成するもう一つの基本要素はストゥーパである。ストゥーパは仏教以前の墳墓に起源し,仏教徒のそれは仏滅直後に釈迦の遺骨をまつるために造立されたのにはじまる。やがて仏教徒の専有物であるかのごとくその造立が盛んになるが,それを推進したのはもっぱら在家信者であった。このようにストゥーパと僧院とは,元来別個に発生したものである。

 やがて比丘たちもストゥーパを受容するようになり,ストゥーパと僧院よりなる伽藍が成立するが,その初期の形態はガンガー(ガンジス)平原の古い例が知られていないため不明である。前2世紀後期から盛んになる西部インドの石窟寺院は,内部にストゥーパを安置した祠堂窟1窟と比丘の住房である僧院窟数窟とを基本単位とする。僧院窟は紀元前後までには広間の3方に数個ずつの房室を並べる整然とした形式をとるようになる。初期の石窟には木造建築を忠実に再現した形跡があり,それ以前の寺院形式を推測する手がかりとなる。野外の建築寺院としてはタキシラの諸遺構が最古の例であり,古いものは1世紀にさかのぼる。2世紀には方形の囲壁の内側四辺に多数の房室を並べ,内庭を比丘たちの集会堂とし,一方にのみ狭い入口をもうけるという広大な僧院が現れた。このような四面僧坊はナーランダーやナーガールジュナコンダその他にも見られるように,ガンガー平原や南インドにまで普及し,以後ながく僧院建築の典型となった。仏像が一般化するとともに仏堂も出現するが,伽藍配置の上からはあくまでもストゥーパと僧院とが二大基本要素であることは,インド亜大陸の全時代を通じて変わることはない。しかもストゥーパの区域と僧院とは厳格に区画され,僧院は比丘たちのみの閉鎖的な区域であった。僧院内にストゥーパを造立する場合もあるが,それは比丘たちのみの礼拝所であり,別に信者たちも参拝するストゥーパが必ず造られた。なお,伽藍は都市の近郊や通商路に近いところ,山岳寺院も比較的登りやすい山腹が選ばれ,日本の密教寺院のように深山に位置するものはない。また方位については明確な規定がなかったようにみえる。構築寺院の用材は,石材が主で煉瓦もあり,木材も古くは用いられたが現存しない。

 インド亜大陸の南に浮かぶスリランカへは,前3世紀に仏教が伝えられた。スリランカの寺院建築は南インドの影響を濃厚に受けながらも独自の展開を示し,やがて東南アジアに強い影響を及ぼした。スリランカの寺院建築に最も顕著な特色はストゥーパである。ダーガバdāgabaと呼ばれ,インドの覆鉢塔の初期の形式をながく保持し,傘蓋は円錐形の相輪となっている。大規模なものが多く,欄楯(らんじゆん)に代えて列柱をめぐらすなど独自の特色も備えている。アヌラーダプラのアバヤギリ塔,ジェータバナ塔,ルワンウェーリ塔など基壇径が70~100mに及ぶ巨大な煉瓦造のストゥーパがある。また仏堂としてはポロンナルワのランカーティラカ寺(12世紀)がある。煉瓦造でボールト(穹窿)天井をもち,創建時(前1世紀)は9層であったと伝える。現在もその初層の石柱1600本が残されている。
→ヒンドゥー教美術
[肥塚 隆]

東南アジア

東南アジアの歴史時代の建築(遺構)はほとんどが宗教建築であり,インドの宗教であった仏教とヒンドゥー教の伝来にともない,その両宗教に奉仕するものとして建てられた。したがって,古ければ古いほど,インドの建築からの影響を強く受けており,時代がたつにつれて,東南アジア各国固有の建築様式を生みだしていった。これが東南アジアの建築に見られる歴史的な展開の特徴である。ただし,インドの南にあるスリランカ建築からの影響も忘れることはできない。スリランカは東南アジアに流布した上座部仏教の発祥地であり,その信仰とともにスリランカ風の仏教建築が東南アジアの各地域に伝わった。特にスリランカ様式の仏塔の形体は,ミャンマーとタイの建築に著しい影響を与えた(パゴダ)。ミャンマーでは特に11世紀以降のパガン朝(11~13世紀)に出現し,タイでは13世紀以降のスコータイ朝(13~15世紀)に現れる。

 東南アジアの過去の建築で現在も残っているものはほとんどが石造建築で,切石ブロックの積上げによったもの,あるいは煉瓦建てである。木造建築は朽ちやすいため,19世紀以降に建てられたものしか残っていない。インドと同様,東南アジアの石造建築は寺院,霊廟などに限られ,一般の民家や王宮でさえも木造建築であった。この石造建築で古いものは5世紀ころのものが発見されているが,ほとんどが基壇の部分だけしか残っていない。しかし,9世紀以降のものはその基壇のみならず,上部までよく残った建築が各地で発見されている。その代表的なものとしては,インドネシアの中部ジャワに見られるボロブドゥールやプランバナン遺跡群などの霊廟(チャンディ)建築である。ヒンドゥー教の遺構には南インドのパッラバ朝(3~9世紀)の建築と類似した点が多く認められる。また仏教建築には東インドのパーラ朝(8~12世紀)に見られる密教建築のプランを思わせる点が認められている。

 カンボジアの古代寺院建築でも,7,8世紀を中心に,南インドのパッラバ朝の建築を思わせる様相が見られる。これらの遺構はヒンドゥー教のもので,先述のインドネシアの場合と同様に,その起源はおもに南インドに発していた。このカンボジアのクメール族の建築の代表的なものにはアンコール・トム,アンコール・ワットの遺跡群があり,これらは隣のベトナム中部のチャンパ王国(2~15世紀)の建築と類似し,また11世紀以降のタイ建築に大きな影響を与えている。その主軸はクメール語で〈プラサート〉と称する塔堂で,上へ上へと高く積み重ねた砲弾状の塔である。このように,インドシナにおいてはクメール建築のおよぼした影響は大きい。
[伊東 照司]

中国

中国の宗教建築には,国家自身が挙行する祭祀儀礼のための壇や,政治教理に直接かかわりをもった儒教の廟を別として,仏教の寺,道教の道観,イスラムの寺院(モスク),および各種の民間信仰の祠廟などさまざまなものがある。また,実例はすでに失われたが,歴史上には景教(キリスト教ネストリウス派),マニ教,祆教(けんきよう)(ゾロアスター教)などの寺院が建てられた時期もあった。

仏寺

仏教は漢代にインドから伝来した。〈寺〉の語は本来官署を指したが,後漢明帝の感夢求法説に,インドから初めて仏像・経典が将来されたという地を,のちに仏寺に改めたのがその始源であり,白馬寺の前身と伝えられる。文献にインド系の建築様式がみとめられる最古の例は,後漢時代末に笮融(さくゆう)が徐州に建てた〈浮屠祠(ふとし)〉で,金色の仏像をまつる九重銅槃(どうばん)の相輪をいただいた楼閣建築であった。浮屠は浮図とも書き,のちに〈塔〉の名で呼ばれる中国独自の仏教建築の類型の基型をあたえたが,初期における機能はむしろ仏殿に近いものであった。南北朝時代にはいり,仏教が社会的に普及するようになると,数多くの仏教建築がつくられ,500以上の仏寺を擁した南朝の建康(南京)や,1000をこえる仏寺が林立した北魏の洛陽のような都市も出現した。なかでも梁の武帝がしばしば捨身した同泰寺や,塔刹(とうさつ)に30重の承露盤をそびえ立たせた北魏洛陽の永寧寺九重木塔などは,歴史上に名高い仏教建築である。

 初期の伽藍は仏陀を供奉する建物を中心に構成されたが,仏舎利信仰の高揚とともに,仏舎利をまつる塔と仏を安置する仏殿とがそれぞれ独立分離し,形態的には塔を中心とする伽藍から仏殿中心の配置へ変化したようである。南北朝時代には,貴族住宅を喜捨して仏寺とするものが数多く現れ,仏殿と講堂を前後にならべる配置で,塔を有するものは少なかった。また,これらの中国化された寺院建築のほか,インド直系の形態を色濃く反映した石窟寺院も当時さかんに開鑿(かいさく)され,いまも雲岡,敦煌,竜門などの各地に遺構が現存する。隋・唐時代にも都城の大興(長安)に数多くの仏寺が建てられたのをはじめ,各地にさかんに寺塔が建設された。唐代以前の寺院建築は,会昌の廃仏(三武一宗の法難)や火災などでほとんど失われ,今日に伝わるものはきわめて少ないが,晩唐以降の木造寺院建築遺構は,都城,宮殿,壇廟の古い実例が残存しない中国建築の,様式,技術的発展を知るうえでの限られた貴重な資料である。現存する木造の遺構では,小規模ながら南禅寺大殿(山西省五台山。唐,782),広仁王廟大殿(山西省芮城。唐,831)が古く,これに次ぐ仏光寺大殿(山西省五台山。唐,857)は間口7間,寄棟造の本格的規模をもつ。くだって独楽寺観音閣(天津市薊県。遼,984)は楼閣建築の代表的遺構。また,華厳寺(山西省大同),善化寺(同),隆興寺(河北省正定)には遼・金・宋時代の遺構が数棟ずつ現存する。塔は,塼造(せんぞう)に最古の嵩岳寺塔(河南省登封。北魏,520)をはじめ多数,石造に神通寺四門塔(山東省歴城。東魏・隋)ほか多数,木造に仏宮寺釈迦塔(山西省応県。遼,1056)などの遺構がある。このほか,元代以降に盛行したラマ教の建築は,チベット族のもの以外では河北省承徳の外八廟の建築群が代表的で,一般の仏教建築とはまったく様式を異にする。

道観

道教の寺院は一般に〈観〉と呼ばれ,遺構の数では仏寺に遠く及ばないが,随所に広範な影響をとどめる。ただし,史上に名高い前漢の壇祠や北魏,隋,唐の各祠観,北宋の玉清照応宮などはいずれも失われ,建立年代の古いものは少ない。現存遺構に関する限りでは,伽藍配置,平面構成などの面で仏寺との著しい差異は希薄である。木造最古の遺構は晋祠(しんし)聖母殿(山西省太原。北宋,1023-32)で,飛梁という十字形石橋を架けた方池を前面に掘った東向きの自由な配置をとる。永楽宮(山西省永済。現在は芮城に移築)は唐の呂洞賓の祠に建てられた典型的な道観遺構で,かつての壮大な規模は失われたものの,無極門,三清殿,純陽殿,重陽殿と中軸線にならぶ元代1262年から建立の建築群が現存し,とくに華麗な壁画で知られる。

イスラム寺院

イスラムは唐代に伝えられたといい,とくに元代以降はさかんになり,各地に漢名を清真寺という礼拝寺院が数多く建てられた。年代の古い遺構としては広東省広州の懐聖寺光塔が,年代に諸説あるが,ミナレットの原型を忠実に伝えた,螺旋階段をもつ塼造尖塔として代表的。福建省泉州の清浄寺(本来は聖友寺)にはモスク直系の半球ドームを塼積みにした大門とドームの失われた礼拝殿がある。また,明代建設の西安の清真寺には木造の省心楼(ミナレット),礼拝窰龕(ミフラーブ),宣喩台(ミンバル)を設けた礼拝堂などがあり,北京,成都,昆明など各地の清真寺もまた平面,配置,用途を教義に従いながら,漢式の木造建築を採用した例が少なくない。
[田中 淡]

朝鮮

朝鮮半島への仏教の伝来は三国時代にはじまる。高句麗に372年,百済には384年に相ついで伝えられ,新羅にも同じころに僧侶の個人伝道によってもたらされたが,迫害を受けたのち527年(法興王14)に国教として受容される。

三国時代

高句麗では〈平壌九ヶ寺〉をはじめ多くの寺院が記録にあらわれ,寺院址には平壌清岩里廃寺,大同郡上五里廃寺などが知られる。伽藍配置は中央に平面八角形の塔を据え,三金堂を東西北面に配置する。この形式は漢代の天文占星思想に由来するものとして,初めは宮殿址と考えられたが,日本の飛鳥寺の伽藍配置と同形式であることが明らかになって寺院址とされた。百済では公州と扶余に寺院址を残し,遺構には扶余定林寺址五重石塔,益山弥勒寺址多層石塔がある。伽藍配置は中門,塔,金堂,講堂を一直線上に置いた百済式伽藍で,日本に波及して四天王寺式伽藍と呼ばれる。定林寺址,金剛寺址,軍守里廃寺は中門と講堂を回廊で結び,金堂を囲う四天王寺式伽藍であり,弥勒寺址は回廊が金堂と講堂の中間で閉じる日本の山田寺伽藍と同形式である。東南里廃寺は塔がなく,金堂を中心にして中門と講堂を回廊で結ぶ形式で,日本には紀寺に例がある。古新羅はその固有の文化,伝統の強さから仏教の受容は遅れたが,その後の寺院造立は最も盛んであった。興輪寺,皇竜寺,永興寺,祇園寺,実際寺,三郎寺,霊妙寺,芬皇寺などが知られ,芬皇寺に塼塔に倣った石塔と幢竿支柱を残す。皇竜寺址は発掘調査によって,566年竣成から統一新羅時代にわたる大伽藍の全容と変遷が明らかにされた。創建伽藍は百済式で,三面僧房が中門の東西方まで延びて中門とは回廊で連結する。この形式は唐の西明寺を模したと伝えられる日本の大安寺伽藍と類似する点で興味深い。

新羅

新羅は唐と結んで660年に百済を,668年に高句麗を滅ぼして半島を統一した。寺院址は慶州を中心に四天王寺址(699),感恩寺址(682),望徳寺址(684),千軍里寺址(8世紀),仏国寺(752)があり,僻遠の山地にも太白山浮石寺,智異山華厳寺,伽倻山海印寺などが創建された。統一新羅時代の伽藍配置は金堂前方の左右に2基の塔を置く二塔式伽藍で,日本の薬師寺と同形式である。四天王寺,望徳寺址は木造双塔址で,感恩寺,仏国寺,千軍里寺等の石塔が現存する。石塔は8世紀に入って流行し,9世紀以降方形多層塔が全国的に普及する。

高麗

高麗時代に入って半島北部の開城に首都が遷り,仏教は国教として厚く保護され,全国各地に多くの寺院が建てられた。しかし,度重なる外寇,とくに高麗末期の倭寇の侵入によってその多くは焼失した。高麗時代後半の建築には強い胴張りをもつ柱,斗栱(ときよう)形式に三国時代以来の古い要素をなおも残しているが,三国統一前後から唐文化の影響を強く受けて統一新羅時代に定着した唐様式を継承している。例えば,現存最古の木造建築である鳳停寺極楽殿(12世紀)や浮石寺無量寿殿(13世紀)の斗栱形式や,二重虹梁蟇股(かえるまた)を基本とする構造形式に唐様式が根強く生きている。しかし,鳳停寺極楽殿の頭貫(かしらぬき)木鼻を垂直に切った形式や,母屋(もや)桁下架構の発達などは,中国華北の遼時代建築細部を受容したものであり,また,肘木(ひじき)下端の繰形は12世紀ころに南宋から伝わった様式(日本でいう大仏様=天竺様)の影響と認められる。新羅以来の伝統様式の上に新しく中国の建築様式を採り入れて折衷様化を図り,日本の折衷様式と同じ経過をたどっている。この様式は斗栱の組み方から柱心包様式と呼ばれ,前記2例に続く例に修徳寺大雄殿(1308),江陵密舎門(14世紀),成仏寺極楽殿(1320ころ),浮石寺祖師堂(1377),道岬寺解脱門(1473),無為寺極楽殿(15世紀),松広寺国師殿(15世紀)などがある。

 高麗時代末期には元の支配を受け,元の建築様式を導入して多包様式が成立した。この様式は柱と柱の間にも斗栱を置く詰組(日本の禅宗様=唐様と同じ),尾垂木形の肘木鼻,柱上斗栱の梁頭形拳鼻などに特色をもつ。柱心包様式に比べると内外への手先も多く,彫刻を多用して装飾的にも豪勢・華麗を尊ぶ宮殿建築にまず採用されたが,14世紀末には盛行して仏教建築にも採り入れられた。黄州心源寺普光殿(1374),安辺釈王寺応真殿(1386)がその初期の遺構例である(高麗美術)。

李朝

李朝時代は元の滅亡とともにはじまり,太祖は仏教を信仰して造寺造仏を行ったが,3代太宗以降は儒教を奨励し,仏教を厳しく排斥して首都漢城から締め出したため,高麗時代に隆盛を極めた仏教も,山間に旧寺院を復興して命脈を保つ状況であった。李朝後期に入って多包様式が木造建築の主流となり,装飾の多い外観や大きな空間を構成する合理的な架構法に,最も民族的な色合いが濃く表現されている。この時代の代表例として,法住寺捌相殿(1625),金山寺弥勒殿(1635),華厳寺覚皇殿(1697)などがある。
[宮本 長二郎]

日本

伽藍の興隆

6世紀中ごろ,仏教公伝直後の日本には寺院建築はなく,宮殿や邸宅の一部が仏堂とされた。《日本書紀》や《元興寺縁起》は崇峻1年(588)に,百済から寺工や鑪盤博士,瓦博士等が来り最初の本格的伽藍,法興寺(飛鳥寺)を着工したと伝える。発掘によると飛鳥寺は,中央の仏塔を北・東・西の三金堂で囲む配置で,先例は高句麗にあり,中国の三合院配置から生まれたとみられる。塔の心柱は掘立式で,仏舎利を奉安する心礎は地下2.5mに据えられ,東西金堂は朝鮮の清岩里廃寺や定林寺址に例を見る,周囲の低い基壇上にも柱を建てる特殊な構造で,配置,技術のすべてにわたり,百済の工匠の指導を受けたものである。中国の建築技術では,基壇上に礎石を据え,太い柱に複雑な組物を用い,彩色を施し厚い土壁と深い軒のある本瓦屋根をもつ。講堂や食堂(じきどう)は大面積で,寺内大衆を集会させた。従来の日本建築の掘立柱,板壁,茅(かや)または檜皮(ひわだ)葺きとはまったく異なるもので,講堂のような大面積の建築も寺院が最初とみられる。石や塼(せん)の建築は,日本では内部空間のない記念碑的なものしか造られなかった。斑鳩寺(いかるがでら)(若草伽藍)や四天王寺など7世紀初頭に発願された寺は,中軸線上に中門,塔,金堂,講堂を縦に順に並べ,回廊は中門から講堂を結び堂塔を囲む。造営に長年月を要し四天王寺の完成は7世紀後半であった。飛鳥時代に着工された寺院は東海から山陽にかけ40余寺ほどあり,大多数は奈良,大阪,京都にある(飛鳥美術)。

白鳳から奈良へ

白鳳時代には奥羽南半から九州中部まで数百の寺が建立され,政府の官寺も定められた。天智天皇発願の川原寺(かわらでら)は中金堂の前庭に東塔と西金堂を置き,背後に講堂と三面僧房があった。中金堂は母屋(もや)のみ壁と扉で囲む聖域とし,四周は吹放しだったらしい。斑鳩寺は焼けて7世紀後半に法隆寺として再建され,これが現存世界最古の木造建築として金堂,五重塔,中門,回廊,東室を伝える。塔と金堂を左右に並べ,胴張りのある太い円柱に雲斗(くもと),雲肘木(くもひじき)を用い,軒を深く出す。人字形蟇股(にんじがたかえるまた)や卍崩し(まんじくずし)高欄など中国六朝建築の細部を伝えている。これら初期の仏殿は平面は比較的小さく,外観は二重屋根とし,内部は閉鎖的で,塼仏,壁画,仏具で荘厳された〈仏の聖域〉で人の立入りを許さなかった。7世紀末に藤原京で造営された本薬師寺は回廊内に両塔をもつ最初の伽藍で,金堂は正面幅が大きく,重層のそれぞれに裳階(層)(もこし)を付し,母屋は閉鎖的な聖域であった。三重塔も各重に裳階のある華麗で異国的な姿とされた。大官大寺(だいかんだいじ)(百済大寺)は九重塔と巨大な金堂を建てた。このころから朝鮮三国だけではなく唐の直接の影響が大きくなった。

 平城京が定まると官私大小の寺が相次いで遷り,金堂前庭を回廊で囲み,塔は回廊外に置く寺が多くなった。大安寺は東西七重塔を南大門外に置き,金堂院の外周を2列の僧房で囲み,唐天竺の寺を模したといわれた。そのなかで薬師寺のみが旧寺(本薬師寺)と同形とされた。これら官大寺は令外官である造寺司によって,国家予算で造営された。741年(天平13)聖武天皇は詔で全国に国分僧寺と尼寺を置き,僧寺には七重塔を建てた。743年には大盧遮那仏(だいるしやなぶつ)をまつる大寺が発願され,745年平城京東郊で着工された。東大寺と呼ばれ,盧遮那仏が仏教世界の中心仏であるのになぞらえて,国分寺の中心とされた。大仏殿の桁行は86m,高さ44mの巨大なもので,前面東西に高さ98mの七重塔がある,規模も意義も空前絶後のものであった。奈良の大寺は中心伽藍のほか,各種の機能を果たす院や本尊以外の仏菩薩などをまつる別院が寺内に置かれ,広大な寺地をもった。東大寺内も別院が多く,羂索院法華堂(三月堂)は双堂(ならびどう)形で建てられ,鎌倉中期に礼堂を再建して1棟とした西大寺は2棟の華麗な金堂をもち,多数の院ごとに仏堂と僧房を有した。唐から律を伝えた鑑真の唐招提寺は私寺ながら4町の寺地を有し,当時の金堂,講堂を存している。また聖徳太子をまつる法隆寺東院が発願され,中心に八角円堂の夢殿を置いて塔廟を表現した。法隆寺には大講堂,経蔵,鐘楼,東西僧房,食堂等,古代寺院の各種建物をよく残している。奈良時代は唐のさまざまの形式の一部を選択摂取し,宮殿,官衙,邸宅にもその建築様式が普及したので,これらの建築を寺院にも転用しやすかった。各地の神社で仏教に帰依して神宮寺を造るものも増加し,山中で定形の配置をとらず,檜皮葺きの塔や床張りの堂も建てられた(奈良時代美術)。

平安時代

平安時代には初期に密教が伝えられ,中期には浄土信仰の興隆があって特色のある寺院建築が求められた。平安京の京内は,東寺,西寺の2官寺のみとして他に官私の寺は建立させず,京郊外に多数の私寺ができた。唐から密教を伝えた最澄は比叡山に天台宗の延暦寺を,空海は高野山に金剛峯寺を建てる。山上なので一定の伽藍配置をもたず,宝塔などを中心に講堂,灌頂堂,常行三昧堂,法華三昧堂などを院ごとにまとめて置き,100余年後に完成した。宝塔以外は堂内に僧ら多勢を入れて儀式を行うため,土間による仏の座と床張りの人の場を分離するよう広庇(ひろびさし)や礼堂の応用と発達をみるようになり,初期仏殿とは異なる性格と形式をもった。平地の密教伽藍として醍醐寺なども造営された。平安初期の寺院建築は現存するものが少ないが,室生寺金堂や当麻寺西塔などがあり,中期初めには醍醐寺五重塔がある。

 浄土信仰と末世思想は,貴族たちに浄土曼荼羅を具体化した苑池をもつ伽藍を流行させ,鎌倉初期まで続いた。藤原道長の法成寺,八角九重塔を有した白河天皇の法勝寺は失われたが,藤原頼通の宇治平等院は苑池と阿弥陀堂(鳳凰堂)が今も残る。伽藍跡と苑池がよく残るのは平泉の毛越寺である。また阿弥陀堂などの三間堂が日本全国に普及し遺構を伝えている。これらは組物も簡単で床張りとし,小組格天井(ごうてんじよう)を用いて落ち着いた室内とされた。墓堂に用いられた中尊寺金色堂は金銀螺鈿(らでん)の装飾で知られる。このような絢爛(けんらん)多彩な装飾は他寺でも用いられた。九品の阿弥陀如来像を並べる九体阿弥陀堂は,六勝寺などから建立されるようになり,京都府加茂の浄瑠璃寺に実例が残る。他にも長大な堂が要求され,京都三十三間堂の前身は法住寺殿に建てられた。一方,貴族邸に持仏堂を置くことから,邸宅と寺院の両性格をもつものもあった。堂内を内・外陣に分け仏と人に別の空間を造る中世本堂形式も平安末からでき,当麻寺曼荼羅堂が知られる。観音信仰や修験道の山寺には,鳥取県三仏寺奥院など懸造(かけづくり)の堂も造られた。本地垂迹などの思想から,神宮寺や神社に堂塔や鐘・経楼を置くものも増えた(和様建築)。

中世--新様式の展開

中世の寺院建築は南都復興に宋の新技術が導入されたことから始まる。やがて禅宗渡来にともなう新様式の成立があり,新宗派の要求する個性的な仏堂や,中世密教本堂形式の全国普及がみられた。遺構数も奈良時代,平安時代とも約30例ずつなのに対して,鎌倉時代だけで160棟におよぶ。東大寺再建のため俊乗坊重源が中国江南から学んだ新様式は,後に天竺様(大仏様)といわれ,挿肘木(さしひじき)と貫(ぬき)による豪壮・単純な軀体に,細部の装飾性をもたせている。重源生前にだけ遵守され,後世には貫による構造強化と木鼻や桟唐戸(さんからと)などの装飾的要素として応用される。大建築の場合だけ当初の天竺様に近い形式を用いた。

 禅宗は思想,芸術,生活様式の総合体系として移入され,寺院の環境として南宋の五山のような境地を実現することが重視されたので,伽藍配置や建築構造と細部の表現が後までよく守られ,かつ日本的な精緻なものに消化され再形成された(禅宗寺院建築)。配置は古代伽藍の中軸線を重視する方式に帰り,中心の仏殿は,外観は重層に見え,柱が高く内部空間も見上げるような高さを志向する。木割の細かい複雑な組物を柱の間にも使って装飾を兼ねる。床はふたたび土間となった。主要伽藍のほかに高僧の住院を墓所とした塔頭(たつちゆう)ができ,開山塔と昭堂(しようどう),方丈(ほうじよう),庫裡(くり)などを配し小僧院の形をとる。これは後に一般の小寺院の原型となった。禅宗寺院は建仁寺,建長寺,東福寺,円覚寺,南禅寺など京と鎌倉を中心に五山十刹の制ができたが,当初の建物はすべて失われ,後世再建のものとなっている。仏殿の実例は功山寺(下関市),不動院(広島市),永保寺(多治見市),円覚寺舎利殿(鎌倉市)など,母屋規模が方三間の堂のみ残る。塔は伽藍後方に建てられ,安楽寺塔(上田市)は唐様(禅宗様)による八角三重裳階つきの珍しい例である。座禅修行の場である僧堂(禅室)や清浄のための浴室,東司(とうす)(便所)は東福寺に実例がある。書院などに二階建ての楼もできた。

 密教寺院の本堂には仏のための内陣と人の場の外陣を同一建物内に設け,間に結界をつくり,新技術を応用して柱を減じたものが全国に普及した。天竺様や唐様の細部や組物が意匠として使われ,折衷様と呼ばれる。新宗派である浄土宗や一向宗では,本堂に集会と説法ができる住宅風の室内をもった奥行きの深い堂が造られ,宗祖をまつる祖師堂を本堂に並べて配したり,あるいは庫裡や書院と並べられた。貴族の邸宅と寺院を兼ねた別邸も造られ,後に寺院となった鹿苑(ろくおん)寺や慈照寺などがある。

衰退と変容

近世になると,桃山時代には装飾彫刻や彩色で華麗さを競うようになるが,江戸初期に禁止される。禅宗の一派である黄檗(おうばく)宗に中国明朝の形式が移入されるが,配置は禅宗様そのままで,細部意匠に明様を用いるものとなる(黄檗美術)。幕府の禁令で一般の寺院では簡素な塔頭形が全国に多くなり,本堂,庫裡,鐘楼がどの寺にもみられるようになる。本堂は禅宗方丈形の六室取りに類似し,宗派によって内陣の構成に違いがみられる。明治維新直後,神仏分離令で仏寺と神社は完全に別組織に分けられて多数の寺院が破壊され,寺院建築は衰退の方向をとる。古建築のすぐれたものは文化財として保存されるが,大規模な木造建築の新築や維持は,大寺院以外はしだいに困難になる。鉄筋コンクリート造の新様式が東京築地本願寺などにみられ,外観は古典的でも内部をホール風とするものや,まったく現代的外観の寺院(静岡大石寺など)も建てられる。さらに広い墓地をやめてコンクリート造の納骨堂が流行するほか,堂内の儀式形態も椅子式などに変化しつつあり,現代は寺院建築の形態,内容とも変革期にある。
→伽藍配置 →教会堂建築 →社寺建築構造 →塔
[沢村 仁]

[索引語]
サンガーラーマ saṃghārāma 僧園 衆園 アーラニヤ āraṇya 寂静処 ストゥーパ stūpa 塔殿 寺 院 白馬寺 浮屠祠 精舎 浮屠 僧伽藍 僧伽藍摩 阿蘭若 伽藍 蘭若 伽藍 三合院 塔 正倉院 食堂院 温室(浴室) ビハーラ 僧院 ラージギル チャイティヤ堂 石窟寺院 祠堂窟 僧院窟 タキシラ 四面僧坊 山岳寺院 ダーガバ dāgaba ルワンウェーリ塔 ランカーティラカ寺 スリランカ建築 パゴダ 石造建築 アンコール・ワット プラサート 浮屠祠 浮屠 浮図 塔 同泰寺 永寧寺 南禅寺(中国) 広仁王廟 仏光寺(中国) 独楽寺観音閣 嵩岳寺塔 ラマ教建築 道観 観(寺) 晋祠(しんし)聖母殿 永楽宮 イスラム寺院 清真寺 懐聖寺 清浄寺 飛鳥寺 弥勒寺址(韓国) 百済式伽藍 四天王寺 軍守里廃寺 四天王寺式伽藍配置 山田寺伽藍 東南里廃寺 皇竜寺 大安寺伽藍 二塔式伽藍 倭寇 鳳停寺極楽殿 大仏様 天竺様 折衷様 柱心包様式 多包様式 法興寺 斑鳩寺 若草伽藍 川原寺 法隆寺 本薬師寺 大安寺 東大寺 法華堂 三月堂 唐招提寺 夢殿 延暦寺 金剛峯寺 九体阿弥陀堂 中世本堂形式 禅宗寺院 塔頭 僧堂 禅室 東司


図-寺院建築
図-寺院建築

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1. 寺院建築
日本大百科全書
神社建築に対する語で、わが国では一般に仏教寺院の建築をさす。しかし広義では、寺院は仏教寺院だけにとどまらず、キリスト教の教会堂や修道院、イスラム教のモスク、ユダ
2. 寺院建築画像
世界大百科事典
世紀に仏教が伝えられた。スリランカの寺院建築は南インドの影響を濃厚に受けながらも独自の展開を示し,やがて東南アジアに強い影響を及ぼした。スリランカの寺院建築に最
3. じいんけんちく【寺院建築】
国史大辞典
明治維新以後、寺院建築は全く振るわなくなったが、明治三十年(一八九七)の古社寺保存法以来、古い寺院建築の保護が計られ、修理事業と研究とが盛んになり、第二次世界大
4. 禅宗寺院建築画像
世界大百科事典
栄西は禅宗を宋から伝え,新しく博多聖福寺(1195・建久6),鎌倉寿福寺(1199・正治1),京都建仁寺(1202・建仁2)を創立した。これらは伽藍配置や建築の
5. 寺院建築 : 図-寺院建築画像
世界大百科事典
6. 飛鳥美術
日本大百科全書
古天皇32)の仏教の情勢を、寺院の数が46寺、僧816人、尼569人と伝えている。造立された寺院建築や内部に安置された仏像や絵画あるいは仏具の工芸品などは、中国
7. 飛鳥美術
世界大百科事典
法興寺の造営は596年竣工まで9ヵ年を要している(紀)。それまで掘立柱の宮殿しかなかった日本に,半永久的な寺院建築が建立されたところに飛鳥の新時代の意義がある。
8. あずまや【東屋】
国史大辞典
」とあって、寄棟造が立派な建物に用いられていたので、日本でも七、八世紀の宮殿・寺院建築の主要な建物は寄棟造か、入母屋造であった。にもかかわらず、奈良時代にこのよ
9. 石川(県)画像
日本大百科全書
、銘吉光の剣が収蔵されている。 金沢平野では小松市の那谷寺なたでらが自然と人工美を調和させた寺院建築で知られる。前田利常としつねの再建で、国指定重要文化財となっ
10. いずもたいしゃ【出雲大社】島根県:簸川郡/大社町/杵築宮内村
日本歴史地名大系
府の寺社奉行に訴状を提出するまでに至った(「出雲大社本願訴状案」北島家文書)。問題の本質は、寺院建築様式の大社造営を企画していた本願に対し、境内から仏教施設を一
11. 茨城(県)画像
日本大百科全書
ほう八幡神社本殿は三間社流造で多賀谷氏が建立した。いずれも安土あづち桃山時代のものである。 寺院建築ではあまり大きなものはない。常陸太田市の佐竹寺本堂は天文てん
12. いよのくに【伊予国】愛媛県
日本歴史地名大系
世三〇〇余人についてその系統を示した彼の自筆にかかるもので重要文化財となっている。松山市内の寺院建築で大宝寺(南江戸町)の本堂は寄棟造・本瓦葺、桁行五間梁間四間
13. インド画像
世界大百科事典
一派であるタミル語の文学(サンガム文学)が注目される。美術ではパッラバ朝(3~9世紀)の石刻寺院建築やチョーラ朝のブロンズ彫刻などの新しい様式を生み出した。ヒン
14. インドネシア画像
世界大百科事典
て残存している。チャンディとは祖先の霊をまつる霊廟にあたるが,火山岩の切石を積み上げて建てた寺院建築である。この寺院に安置された石彫の神々(ヒンドゥー教)や仏像
15. 江戸時代美術画像
世界大百科事典
的形式を再現しようとする姿勢である。妙心寺法堂(1657),大徳寺本堂(1666)などの禅宗寺院建築,清水寺本堂(1633),東大寺大仏殿(1709),賀茂別雷
16. エローラ画像
日本大百科全書
「カイラーサナータ」で、これは石窟ではなく、巨大な岩塊を岩山から切り離して彫り削った単一石の寺院建築である。その大きさは間口約49メートル、奥行約85メートル、
17. えん【縁】
国史大辞典
建物の外周にある板敷部分。縁側・濡縁。住宅・神社建築では古くからあったが、寺院建築では床(ゆか)が土間から板敷になるにつれ、奈良時代から現われ、平安時代後期か
18. えん‐せい【円井】
仏教語大辞典
寺院建築の天井の井形の中に蓮華をかいたもの。井形につくるのは火をいとうため。 谷響続集 一・天井画竜 「天井名方井。続高僧伝、方井則倒垂荷葉、円角則側布蓮華。亦
19. おうぎ‐だるき[あふぎ‥]【扇垂木】
日本国語大辞典
多数の垂木を放射状に配置したもので、唐様(からよう)の寺院建築などに用いられる。また、すみだけ扇垂木とすることもある天竺様(てんじくよう)の寺院建築にも応用され
20. 黄檗美術
世界大百科事典
崇福寺の第一峰門(1644),大雄宝殿(1646)がその代表的遺構であり,渡来工人による明代の寺院建築の意匠,彩色が強い異国風を感じさせる。黄檗寺院はさらに僧隠
21. 恩賜賞受賞者
日本大百科全書
藤正男 研究題目:小脳の神経機構と運動学習の機序第77回(1987年度)福山敏男 研究題目:寺院建築の研究・神社建築の研究(福山敏男著作集 1~4)山崎敏光 研
22. かい‐ろう【回廊・廻廊】
仏教語大辞典
建物の回りをとりまいている長い廊下。寺院建築で、伽藍の主要部分を区画するための建物。平安末からは神社にも用いられた。 今昔 一二・二〇 「食堂幷に四面の廻廊、大
23. 垣
世界大百科事典
も多く描かれているので,古い時代の神社では非常に多く用いられたと考えられる。しかし神社でも,寺院建築の回廊の影響を受けて,壁面に格子をはめこみ,上に屋根をかけた
24. かしおむら【柏尾村】静岡県:清水市/旧庵原郡地区
日本歴史地名大系
九二七)にかけて鉄筋コンクリートで再建された。きわめて初期の鉄筋コンクリート建築で、伝統的な寺院建築と西欧的な意匠がよくつりあっており、平成五年(一九九三)県の
25. かとうぐち【瓦燈口】
歌舞伎事典
 大道具用語。〈天王建(てんのうだて)〉の御殿正面に設ける出入口。寺院建築の窓などの火(瓦)燈の形で、織物の垂幕をかけ、真ん中から引き分けて出入りする。松井 俊
26. 鐘(楽器)画像
日本大百科全書
知らせるのに用いた。風鐸は一種の風鈴で、舌の下につけた風招ふうしょうが風を受け、舌を動かして音を出す。最古の寺院建築である飛鳥あすか寺(元興寺がんごうじ)にも鐘
27. 歌舞伎画像
世界大百科事典
現に用いる。瓦灯口(かとうぐち)大道具。〈天王建(てんのうだて)〉の御殿正面に設ける出入口。寺院建築の窓などの火(瓦)灯の形で,織物の垂れ幕をかけ,真ん中から引
28. 壁画像
世界大百科事典
げる板倉や,板ではなく三角の校木(あぜぎ)を積み上げる校倉なども古くから用いられた。 土壁は寺院建築とともに中国,朝鮮半島からもたらされたものと思われ,以来,日
29. 鎌倉時代美術画像
世界大百科事典
に建長寺,円覚寺,京都に東福寺,南禅寺が創建され,中国禅寺の風を模倣した伽藍が出現した(禅宗寺院建築)。禅寺特有の伽藍の構成と建築の様式は宋代中国の建築に範をと
30. カラチュリ朝
世界大百科事典
ーTripurīに都してジャバルプル地方を支配し,近隣諸国と抗争しながら約250年間支配し,寺院建築など独自の文化をきずいた。これとほぼ同時期,北のゴーラクプル
31. 唐様画像
世界大百科事典
建築ではとくに鎌倉時代に禅宗に付随して移入された宋・元の建築様式(禅宗寺院建築)をとり入れたものを近世になって唐様と呼び,和様や天竺様の寺院建築と区別した。天竺
32. 瓦画像
世界大百科事典
た土器を総称したものとされている。岩松 浅夫 東洋の瓦 瓦作りの技術は,中国から朝鮮を経て,寺院建築とともに日本に伝えられた。瓦といえば,今日では一般に桟瓦(さ
33. かわら[かはら]【瓦・〓
日本国語大辞典
la からか)(1)粘土を一定の形に固め、かまで蒸し焼きにしたもの。寺院建築とともに中国から伝来。主として、屋根を葺(ふ)くのに用い、また、地面に敷きつめる。鬼
34. がくえんじ【鰐淵寺】島根県:平田市/別所村
日本歴史地名大系
この意味では杵築大社も同様で、永正一六年の社殿造営は尼子経久の意を受けて、仏教思想を機軸とした寺院建築様式によって行われたのであった。すなわち、天台宗の護摩壇形
35. 瓦窯
世界大百科事典
査によっても証明されている。 日本における屋瓦の製作は,588年,飛鳥寺の造営に際し百済から寺院建築の技術とともに〈瓦博士〉が渡来して以後のことである。この飛鳥
36. がらん【伽藍】
全文全訳古語辞典
僧園・僧院などと漢訳する》僧侶が集まって修行をする清らかで静かな場所。のち、寺院の建物の総称。寺院。寺院建築
37. 伽藍配置画像
世界大百科事典
寺院の規模,占地などの各種の要素を総合的に考えて新たな研究の方向を見いだす時期にきている。→寺院建築坪井 清足 薬師寺式伽藍配置 東大寺式伽藍配置 大安寺式伽藍
38. がらんはいち【伽藍配置】画像
国史大辞典
寺院建築には本尊を安置する金堂(仏殿・本堂)、釈迦の骨である舎利をまつる塔婆、仏法を講ずる講堂、経を納める経蔵、時を告げる鐘を釣る鐘楼、僧の止住する僧房などが
39. ガンガ朝
世界大百科事典
数世紀にわたって支配した王朝は西ガンガ朝と呼ばれ,この地方の開拓,灌漑,バラモン文化の移植と寺院建築に寄与した。その起源は不明であるが,東のタミル・ナードゥのバ
40. きそひのき【木曾檜】
国史大辞典
曾荘」が設けられるようになったゆえんである。のちに小木曾荘の領家となった仁和寺の無量寿院が、寺院建築用材を荘内に需めた確証はないが、同荘からの領主得分としては林
41. 基壇
世界大百科事典
があって,2壇のものは重成(二重)基壇と呼ばれる。基壇建物が日本で普及するのは,おもに古代の寺院建築としてであって日常の生活をする住宅建築ではなかった。宮殿建築
42. きだん【基壇】画像
国史大辞典
上下二段になっていることがあり、このときは上成(じょうせい)基壇・下成基壇と呼んでいる。平安時代から、寺院建築にも内部に板敷が造られるようになると、建物の外周に
43. きのくにやぶんざえもん【紀伊国屋文左衛門】画像
国史大辞典
駿府の豪商松木新左衛門と組んで約五十万両の巨利を占めたといわれる。江戸のたび重なる火災や盛んに行われる寺院建築によって、材木問屋は大いに栄えたが、なかでも紀文の
44. きょういく【教育】
国史大辞典
さらに仏教が伝来して、文字による学問・文化および宗教が発達し、そのための教育施設も設けられるようになった。また寺院建築や仏像彫刻その他の美術・工芸の伝来により、
45. きんせいいこう【近世以降】 : 寺院建築
国史大辞典
明治維新以後、寺院建築は全く振るわなくなったが、明治三十年(一八九七)の古社寺保存法以来、古い寺院建築の保護が計られ、修理事業と研究とが盛んになり、第二次世界大
46. 近世俳句集 350ページ
日本古典文学全集
寛文元年九月より伽藍を草創し、精舎の経営多くは異風を模し、名づけて黄檗といふ」とある。異国風の寺院建築や、僧鉄眼の翻刻した大蔵経の板木六万枚を襲蔵することなどで
47. きんだい【近代】 : 建築
国史大辞典
一九二〇年(大正九)代以後の欧米で確立した国際的・普遍的な近代様式が日本に定着するのは戦後のことである。 →寺院建築(じいんけんちく),→住宅建築(じゅうたくけ
48. 百済画像
世界大百科事典
また,百済の王室は仏教受容を積極的に推進し,新しい宗教・思想体系を導入するとともに,仏像彫刻,寺院建築などの新文物をも受容した。また,当時の国際情勢から,百済の
49. くみもの【組物】画像
国史大辞典
を及ぼし、中世末には和様の組物はかなり禅宗様化する。組物は中国から伝えられたものであるため、寺院建築や古代の宮殿建築に用いられ、神社や住宅には使われなかったが、
50. クメール美術
世界大百科事典
南部,ベトナム南部にまで及んでいる。〈クメール・プラサート〉(クメール遺跡の意)と称する石造寺院建築とともに,古くから高い芸術性が注目されてきた。石彫は先の遺構
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興福寺(国史大辞典)
奈良市登大路町にある法相宗大本山。南都七大寺の一つ。寺伝では「こうぶくじ」という。縁起によると、天智天皇八年(六六九)藤原鎌足の死去に際し、妻の鏡女王が鎌足の念持仏の釈迦丈六像などを祀る伽藍をその山階(山科)邸に設けたのに始まり(山階寺)、その子不比等によって藤原京の厩坂に移遷(厩坂寺)
東大寺(国史大辞典)
奈良市雑司町にある華厳宗の総本山。大華厳寺・金光明四天王護国寺・総国分寺などの別称がある。南都七大寺・十三大寺・十五大寺の一つ。東大寺の寺号は平城京の東方にある大寺を意味し、『正倉院文書』の天平二十年(七四八)五月の「東大寺写経所解案」に初見するが
法隆寺(日本大百科全書・世界大百科事典)
奈良県生駒(いこま)郡斑鳩(いかるが)町にある聖徳(しょうとく)宗総本山。斑鳩寺(鵤寺、伊可留我寺とも書く)、法隆学問寺などの異称がある。南都七大寺の一つ。草創の由来は、金堂の薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう)光背銘によると、用明(ようめい)天皇が病気平癒を念じ
龍潭寺(日本歴史地名大系)
[現]引佐町井伊谷。県道引佐―舘山寺(かんざんじ)線の西側の小丘陵上に位置する。臨済宗妙心寺派。山号は万松山、本尊は行基作と伝える虚空蔵菩薩。元文六年(一七四一)に気賀(けが)関所(現細江町)に差出した御要害村寺院縁寿録(山本家文書)によると、天平五年(七三三)に行基が地蔵寺を開創、のち自浄(じじよう)院
渭伊神社(日本歴史地名大系)
[現]引佐町井伊谷。井伊谷(いいのや)の北西端に鎮座する。社域西側を神宮寺(じんぐうじ)川が半円を描いて流れ、杉・檜・楠の古木が社叢をなす。祭神は品陀和気命・息気長足姫命・玉依姫命。旧郷社。「延喜式」神名帳にみえる引佐郡六座のうちの「渭伊(イイノ)神社」に比定される。
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寺院建築(国史大辞典・世界大百科事典)
仏教寺院に属する建築。ただし寺院内にあっても、鎮守とその付属建物は神社建築として扱い、書院・客殿などの居住用建物は住宅史で取り上げている。しかし、居住用建物でも、僧房・庫裏など仏教寺院独特のものは含む。仏教は六世紀の中ごろ伝来し、大陸の建築様式を伝え
神社建築(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
神社の社殿およびその付属建築。古代人は、神霊のよる神聖な場所を神籬(ひもろぎ)として崇(あが)め、また祖先の霊を祀(まつ)るために、伝来の宝物を御霊代(みたましろ)として崇めた。したがって、神籬のある場所、御霊代を祀る場所が、その神の社地として定着し
仏教建築(日本大百科全書)
仏教に関する祭祀(さいし)、信仰、布教などのために建てられた建築。紀元前5~前4世紀の仏教勃興(ぼっこう)当初は、礼拝(らいはい)対象とする仏像も、それを納める仏堂もなかった。宗教施設としての構築物がみられるのはブッダ(仏陀)の没後(前486ないし
東京駅(日本大百科全書・世界大百科事典)
東京都千代田区丸の内にある首都東京の表玄関をなすJR旅客駅。東海道・山陽新幹線、東北新幹線、東海道本線、東北本線、総武(そうぶ)本線の起点であるとともに、京浜東北線・山手線が通じ、さらに上越新幹線、北陸新幹線、山形新幹線、秋田新幹線、中央本線、横須賀
東京タワー(日本大百科全書・世界大百科事典)
東京都港区のほぼ中央、芝公園(旧、増上寺(ぞうじょうじ)境内の一部)内にある総合電波塔。正式名称は日本電波塔。テレビ塔が林立するのを防ぐため、内藤多仲(たちゅう)(1886―1970)の設計で1958年(昭和33)12月に完成した。敷地2118平方
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