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  11. 井伊谷村

井伊谷村

ジャパンナレッジで閲覧できる『井伊谷村』の日本歴史地名大系のサンプルページ

井伊谷村
いいのやむら

[現]引佐町井伊谷

現引佐町の南部、井伊谷川に神宮寺じんぐうじ川が合流する小盆地に立地する。「和名抄」にみえる引佐郡渭伊いい郷の中心をなしていたという。渭伊は井からの転化とされ、井水を神聖視する聖水祭祀を行ってきた豪族が栄えた地という(引佐町史)。井伊氏の名字の地とされる。「寛政重修諸家譜」によると、寛弘七年(一〇一〇)遠江国井伊谷八幡の神主が社頭に参り、御手洗井の中で男の赤子を見つけた。神主による養育を経て七歳の時に備中守共資の養子となって共保と称し、のち出生地の井伊谷に移住、井伊を家号としたという奇瑞が述べられている。

〔中世〕

井伊いい郷の中心地にあたる。戦国末期の井伊谷は奥山おくやま三岳みたけ久留目木くるめき渋川しぶかわを含む地域の総称としても用いられた。井伊郷の領主井伊氏は当地に井伊谷城を築いて本拠としたとされるが、地名の初見は年月日未詳の伊達忠宗軍忠状(駿河伊達文書)で、永正九年(一五一二)閏四月三日、今川氏親と斯波義達の合戦の最中に今川方の武将伊達忠宗が「井伊谷」への朝駆けの功をあげている。のち当地に龍潭りようたん寺を創建したのが井伊谷城主井伊直平であることから(「勅諡円照真覚禅師文叔大和尚略伝」竜門寺蔵)、伊達忠宗は井伊勢の本拠としての当地を攻撃したものと思われる。その後、井伊氏は今川氏に従ったが、今川義元の尾張桶狭間合戦での敗死後、反今川の動きをみせたという理由で、永禄五年(一五六二)三月二日に井伊谷城主井伊直親が今川家臣朝比奈泰朝に討たれた(異本塔寺長帳・家忠日記増補追加)。井伊家は子息万千代(のちの直政)が幼少のため直親と婚を約していた直盛の娘が次郎法師直虎を名乗って家督を継いだとされ(「寛政重修諸家譜」など)、年寄・親類衆・被官衆が主家を支えたが、当地ではなお動揺と混乱が続いた。このことは、永禄九年に今川氏が当地に徳政令を発布した際、一族の井伊主水佑が銭主と結託して私的にその施行を停止したことに現れている。この井伊谷徳政は同一〇年末から同一一年にかけて匂坂直興が駿府で今川家家臣関口氏経と交渉し(一二月二八日「匂坂直興書状」蜂前神社文書など)、同年八月四日に井伊直虎および親類衆・被官衆にその実現を促す氏経の書状(同文書)が出された。その一方で、九月一四日に銭主瀬戸方久は今川氏真から井伊谷の買得地の安堵を受けており(「今川氏真判物」瀬戸文書)、徳政令にどれほどの実効性があったのか疑問が残る。

永禄一一年一二月、武田信玄の駿河進攻に呼応して徳川家康が遠江に入部した際、菅沼忠久・近藤康用・鈴木重時(井伊谷三人衆)が当地への案内役を勤める功をあげ、同月一二日に家康は三人に井伊谷を与えることを約した(「徳川家康判物写」鈴木重信氏所蔵文書)。なお永禄四年九月一二日と同六年五月二二日に三河宇利うり(現愛知県新城市)攻めに当たっていた鈴木重勝が井伊谷を通じて今川方と連絡を取合っており(「今川氏真判物」・「今川氏真感状」同文書)、当地は今川氏にとって三河からの情報収集の拠点の一つとなっていた。元亀四年(一五七三)五月の三河長篠ながしの(現愛知県鳳来町)攻めの際、武田家は井伊谷における伊藤忠右衛門の軍功を賞し(同年一一月二三日「武田家朱印状写」三川古文書)、七月六日には武田勝頼が小笠原信嶺に長篠在城料として井伊谷を与えており(「武田勝頼判物」小笠原家文書)、当地は一時武田氏の勢力下に置かれたものとみられる。その後、徳川氏が支配を回復し、天正一七年(一五八九)四月に龍潭寺領、翌年一月には「井伊谷之内」の三岳村・久留女木村・渋川村の検地を実施した(「龍潭寺領検地帳」龍潭寺文書、「三岳村菅沼次郎衛門方検地帳」旧井伊谷村役場文書など)。このことから井伊谷が広域地名としても用いられていたことが知られる。

井伊氏の動静は判然としないが、「保元物語」に源義朝に従う兵として「遠江国には、横地・勝田・井八郎」とあり、「吾妻鏡」の建久六年(一一九五)三月一〇日条に載る奈良東大寺供養の行列に「伊井介」、寛元三年(一二四五)正月九日条に載る弓始めの儀に「三番 井伊介」とみえ、有力な鎌倉御家人であった。

〔近世〕

慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦後は幕府領となり、代官松下常慶のもと三人の小代官によって支配されたという(中井家文書)。これ以降、当村周辺は井伊谷三人衆の一人近藤康用の子孫によって知行地が細分化されていく。その経緯には判然としない面もあるが、「寛政重修諸家譜」を中心として概観しておく。康用の子秀用は慶長一九年までに相模・上野両国のうちに知行地をもつ一万五千石の大名となり、同年相模小田原城の城番を命ぜられた。一方、秀用の長子季用は慶長五年に井伊谷で三千五〇石余を与えられていた。元和元年(一六一五)秀用は二子用可に五千石余を分知。同五年秀用の知行地一万石は遠江国引佐・敷知ふち豊田とよだ麁玉あらたま長上ながのかみ五郡のうちに移され、のち居所を井伊谷に営んだ(井伊谷藩の成立)。同五年季用の子貞用は付属していた徳川頼宣が紀伊国に封ぜられるのに伴い頼宣から食禄を与えられることとなって、井伊谷の采地三千五〇石を収公された。しかし翌六年祖父秀用の知行地から采地三千一四〇石を新たに分知され、これが金指かなさし村に陣屋を置く金指近藤家となる。なおこの分知により井伊谷藩は一万石を割り、廃藩となった。

秀用から五千石余を分知されていた用可は、元和元年以降に采地を遠江国引佐・長上・麁玉・敷知四郡のうちに移され、気賀けが(現細江町)に陣屋を置く気賀近藤家が創出された。同七年秀用は相模国のうちで二千石を加増され、寛永二年(一六二五)には采地八千九四〇石余の朱印状を与えられた。この前年、用可の子用治は采地五千石余のうち二千石を庶兄用行に分知、これが大谷おおや(現三ヶ日町)に陣屋を置く大谷近藤家となる。寛永八年秀用は八五歳の高齢で死去。同年秀用の遺領のうち二千二二〇石は金指近藤家の貞用に、五四〇石余は気賀近藤家の用治に、四〇〇石は大谷近藤家の用行に分知された。残りのうち五千四五〇石余は秀用の四男用義の子用将に分知され、秀用の居地井伊谷を継承して井伊谷近藤家となった。三二〇石余は秀用の弟用忠の子用尹に分知され、花平はなだいら村に陣屋を構える花平(石岡)近藤家が創出された。以上のように近藤家は五家に分れ、井伊谷五近藤と称された。

当村は旗本井伊谷近藤領として幕末に至る。井伊谷陣屋は旧井伊谷城三の丸跡地に元和六年に建設され(中井家文書)、享保一〇年(一七二五)に大手門・高壁などの外観が整ったという(山下家文書)。元和元年には高五六六石余、田三一町余・畑三〇町三反余(龍潭寺文書)。正保郷帳では田方三七〇石余・畑方二〇〇石余、ほかに龍潭寺領八三石余・二ノ宮(現二宮神社)領四石余・二ノ宮神主屋敷一石余・井大明神領二石余・明円みようえん寺領二石余・西楽さいらく(現廃寺)領一石余・光善こうぜん庵領八斗余・浄円じようえん(ともに現廃寺)屋敷一斗余がある。旧高旧領取調帳では高八九三石余。上市場かみいちば・中市場・下市場・谷津やづ上野うえの一之沢いちのさわ北岡きたおかがそれぞれ枝村をなしていた。井伊谷川下流は大雨による水害が多く、川筋にあった上野村は承応四年(一六五五)馬坂下まざかしたへ、翌年には谷津村も南側の山手へ屋敷替えをしている。慶安二年(一六四九)に三河鳳来ほうらい(現愛知県鳳来町)の境内に東照宮を建立する命を受けた造営奉行の宿継ぎを勤めて以来、浜松から三河・信州方面への人馬継送りを金指村・伊平いだいら村とともに勤めた(以上、田中家文書)。宝永四年(一七〇七)から気賀宿の助郷を勤めた(龍潭寺文書)。寛政五年(一七九三)の家数一五四・人数六一三(中井家文書)。産物は茶・楮・柿・紙・木綿布などで(遠江国風土記伝)、井伊谷半紙の名は有名(「遠州往来」安間家文書)。明治九年(一八七六)北神宮寺きたじんぐうじ村・南神宮寺村・東牧ひがしまき村と合併して井伊谷村となる。

〔社寺〕

しろ(一一四メートル)東麓にある二宮神社の祭神は多遅麻毛理命と宗良親王。同社を「延喜式」神名帳にみえる引佐郡六座のうちの「三宅ミヤケノ神社」に比定する説がある(前掲風土記伝など)。字斉藤田さいとうだの臨済宗妙心寺派円通えんつう寺の本尊は宗良親王念持仏と伝える足切観音。字城山下しろやましたの同派明円寺は往古は真言宗、臨済宗方広寺派に属したが、寛文二年(一六六二)から妙心寺派になったという。昭和三一年(一九五六)両寺は合併して臨済宗妙心寺派晋光しんこう寺となる。

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