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  11. 西芳寺

西芳寺

ジャパンナレッジで閲覧できる『西芳寺』の日本歴史地名大系のサンプルページ

西芳寺
さいほうじ

[現]西京区松尾神ヶ谷町

西芳寺川の北岸、谷の入口に位置する。洪隠山と号し、俗にこけ寺の名で知られる。臨済系単立寺院。本尊阿弥陀如来。平成六年(一九九四)世界の文化遺産(古都京都の文化財)に登録された。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔草創伝承〕

応永七年(一四〇〇)住持急渓中韋の著した「西芳寺縁起」は創立を聖徳太子の別墅にさかのぼるといい、「和漢三才図会」「雍州府志」「山州名跡志」などにより抜きがたい伝説となっている。比較的信頼できる「夢窓国師年譜」は、天平年中(七二九―七四九)に行基が聖武天皇の勅願により創建した畿内四九院の一、「西方寺」を草創とする。「西芳寺縁起」は平城天皇の皇子高岳親王が薬子の変で皇太子を廃され、一時ここに住した空海について落飾、真如親王と号して入唐した。その後荒廃したが、平重盛が父清盛の怒りを避けて一時この寺に蟄居した。さらに親鸞が当寺の愚禿堂を築き、正嘉年間(一二五七―五九)北条時頼が諸国巡察の際、仮寓して桜堂と称したなどとも伝える。しかしいずれも実証的根拠はない。建久年間(一一九〇―九九)のちに幕府評定衆も務めた中原師員が堂舎を再建して本寺を西方・穢土の二寺に分け、法然を招請したという伝えは、師員が南北朝期に当寺を復興した摂津親秀の先祖にあたり、穢土寺の名も応安七年(一三七四)一〇月二九日の寄進状(地蔵院文書)にみえることから、ありうることである。

〔夢窓疎石による禅寺化〕

建武年間(一三三四―三六)の兵乱で荒廃したが、室町幕府の評定衆で当寺の檀越でもあった摂津親秀が暦応二年(一三三九)四月夢窓疎石を招請して復興。疎石は浄土宗を臨済宗に改め、名も西方寺から西芳寺と変えて西芳精舎の額を掲げ、本尊の阿弥陀如来にちなみ仏殿を西来さいらい堂と名付けた。疎石の弟子春屋妙葩は、「夢窓国師年譜」に「仏殿本安無量寿仏像、今以西来堂扁焉、堂前旧有大桜花樹、春時花敷、稠密殊妙、為洛陽奇観」と述べる。光厳上皇は康永元年(一三四二)と貞和三年(一三四七)に訪れたが、二度目の参詣の際、太政大臣洞院公賢は日記「園太暦」同年二月三〇日条に、「庭花盛開、有感有興、花陰立胡床数脚、上皇以下東堂諸卿候之、暫握翫、其後御乗船、御料舟一艘、有小屋形」と記す。永享五年(一四三三)には伏見宮貞成親王が「看聞日記」同年三月一八日条に感懐を述べている。

西芳寺参(中略)、其後寺中見廻、前水地景言語非
所覃也、乗船、長老・院主・宰相以下乗之漕廻、其
興甚深、次指東庵ニ参、国師御影焼香、次縮遠、凡
寺中悉見廻浄土八功徳水如然歟、養眼外無他、(中
略)終日遊覧沼計也、西芳寺未一覧之間、多年有増
之処、院主頻被申、寺長老被申勧、思立本望満足了、

〔寺領〕

西芳寺は朝野の崇敬と幕府の保護も厚く、寄進や買得による寺領荘園は急速に集積された。全盛時の寺領として美濃国米田よねだ比久見ひくみ(八〇貫余)梁瀬やなせ楽田がくでん村南方(三九貫余)柿野かきの(五六貫余)、近江国柏木かしわぎ御厨酒人さこうど(一七〇石)、武蔵国小沢郷金程村(不知行)、丹波国勝林寺嶋しようりんじじま今林いまばやし荘内行定名守里名(一石余)、備後国くさ村国衙ならびに地頭職(五〇貫)、但馬国太田おおた荘中山須地坂門新(二七貫)、阿波国名西みようざい荘内守清名(一〇貫)、摂津国安威あい(三七貫)、駿河国阿野あの東原ひがしばら(二〇貫)、播磨国伊和東いわひがし郷地頭職(六四貫余)、丹後国小河村ならびに成富保(六〇貫)、加賀国倉月くらつき荘内諸職名田(二〇〇貫)・同荘安主あんず(二三貫)、和泉国下条しもじよう郷地頭職(六三貫余)、伊勢国宿野しゆくの御厨(六貫)、山城国円願寺安依名植松ならびに散在(五八石余)、洛中屋地ならびに寺辺(三三貫余)・同波多野方地子(一〇貫)があり、都合米二三〇石余、銭七八二貫余の収入を得て、衆僧二二人・行者六人・力者一三人・一役七人が住していた(「蔭涼軒日録」長享二年七月五日条)。ちなみに当時五山の雄である天龍寺の収入は約八千貫である(至徳四年閏五月二一日「天龍寺土貢注文」天龍寺文書)

〔衰退と足利義政の外護〕

将軍足利義教・義政らの参詣も相次ぎ、義政はしばしば観楓の宴を張った(蔭涼軒日録)。しかし応仁の兵火により西芳寺は衰退する。応仁二年(一四六八)八月より東軍細川勝元の被官勢は西芳寺を含む谷の陣に拠って西岡にしのおかの西軍と相対した(文明六年三月日「野田泰忠軍忠状案」別本前田家所蔵文書)。翌文明元年(一四六九)四月二二日、鶏冠井かいで(現京都府向日市)から進撃した畠山義就らの西軍は谷の陣営を焼掠、寺社ことごとくに放火し、東軍は唐櫃からと越伝いに丹波方面へ敗走した(前掲野田泰忠軍忠状案、「見聞雑記」など)。ここに西芳寺の山水庭園も荒廃にゆだねられ、什宝もはなはだしく散逸する。たとえば舎利殿の明兆筆十六羅漢像は盗まれて近江にあり、伏見蔵光庵の斡旋でようやく長享元年当寺に返還、前将軍足利義政の命で修理が加えられている(「蔭涼軒日録」文明一九年六月二一日条)

義政は東山山荘(のちの慈照寺、現京都市左京区)造庭の際に規範とした西芳寺の復興に意を用い、夢窓疎石像を安置する最も重要な殿舎、開山塔の指東しとう庵復興を命じた。文明一八年義政の命により三〇通にのぼる坐公文(赴任しないで五山の住持資格を与える公帖)が発給され、その収入でようやく同年九月造畢にこぎつけているが(蔭涼軒日録)、寺社造営のための坐公文発行はまったく異例である。しかし幕府の梃子入れにもかかわらず西芳寺の負債は累積し、延徳元年(一四八九)八月には住持竺心梵密が寺債の多きに堪えかねて僧録司鹿苑ろくおん(相国寺)に辞表を出した。応仁の乱前が七〇〇余貫、乱後が五〇〇余貫、累計一千二〇〇余貫という巨額である。僧録司の亀泉集証は乱以前の債務はすべて破棄、乱後の負物を向う五年間で返済という財政再建案を幕府政所執事伊勢貞宗に諮り、交渉の結果、乱前の負物は一〇ヵ年内に返却という折衷案が成立、梵密はようやく当寺に帰住した(蔭涼軒日録)

荒廃した池庭は文明一七年の洪水後、本願寺蓮如により再興されたという(西芳寺池庭縁起)。大永二年(一五二二)三月一六日に当寺に詣でた公家の鷲尾隆康は「朝間詣西方寺、見庭、池水清潔、忽一洗俗塵了、暫令歴覧、帰家朝食」と記し(二水記)、復興の様が知られる。織田信長の上洛にあたり、永禄一一年(一五六八)九月二四日、丹波の柳本氏が唐櫃越より松尾に乱入して谷の寺社に放火し(言継卿記)、西芳寺はまさに廃絶に帰せんとした。信長は前遣明正使天龍寺妙智院主の策彦周良に殿舎を再建させた。だが江戸時代に入って、寛永(一六二四―四四)・元禄(一六八八―一七〇四)の水害を被った。

現在の堂宇はほぼ明治一一年(一八七八)八月の造営にかかるものである。西芳寺では三月三〇日に開山忌が執行される。所蔵文化財に絹本著色夢窓国師像(自賛、国指定重要文化財)、疎石・策彦・隠元らの墨跡、急渓和尚筆「西芳寺縁起」一巻がある。

〔西芳寺庭園〕

国指定史跡・特別名勝。面積二町二段余。往年の境内は一九町八段(約一九八〇平方メートル)余という。庭内は一面蘚苔におおわれ、苔寺の名が生れた。造園の指揮は夢窓疎石によるが、鎌倉期の西方寺の堂舎や庭をもとに改造したといわれる。もとは西来堂の西に楼閣があり、下層を瑠璃殿、上層を無縫塔と称したが現存しない。この閣は足利義満の金閣(現北区鹿苑寺)、足利義政の銀閣(慈照寺)のモデルとなった。方丈の貯清軒からは比叡山が京の町ごしに望まれた。書院の釣寂ちようじやく庵は夢窓が起居したところで、康暦二年(一三八〇)に訪れた義堂周信が「空華日用工夫略集」に「早過西芳寺、先釣寂庵先師像前〓香三拝、先師平日所用道具器皿等、不移一物皆在此矣」と記すように、国師日常所用の什器がことごとく保存されていた。疎石は西方寺時代の池をさらに掘広げて心字にかたちづくり、島々・洲崎を築いた。また瑠璃殿の北方には潭北亭、南の島に湘南亭を構えた。船着場には今同亭があり、邀月橋とよばれる亭橋もあった。春屋妙葩が「夢窓国師年譜」に「堂閣僧舎之間、廊庶環行、随其地宜、繚繞回復、皆備禅観行楽之趣、開清池導伏流、水出岩罅、潺々如洗玉、可喜也」と記すが、堂舎は廊でつながれて曲折し、中国的雰囲気を醸し出していた。

池を回遊する道を山麓に突当ると向上関とよばれる門に達し、岸の筧を「曹源の一滴」と称する。ここからの急坂を通宵路といい、山腹に真如親王庵室跡と伝える指東庵があって、枯山水の前庭には須弥山の石組が並べられていた。頂上の縮遠亭は「空華日用工夫略集」で義堂周信が「次登縮遠亭、更高上如下坂、勇登到頂、縮遠二字宛爾、九重城之南北東西、粲然如図画中物」と賞したように、京の町全体が見渡せた。指東庵の近くは楞伽窟、その南側に売風店があった。

〔湘南亭〕

「しょうなんてい」と読む。西芳寺林泉の南辺、泉池に臨んで北面する茶亭。代表的な桃山期の茶室で国指定重要文化財。創建は夢窓疎石のときであるが、文明一七年の洪水で流失、慶長年間(一五九六―一六一五)利休の子千少庵宗淳が同志とはかって再建したと伝える。元禄年間森宗森が修補を加え、嘉永年間(一八四八―五四)竜厳が瓦葺に改め、大正八年(一九一九)大修理した。亭は本家と待合および廊下の二区画に分けられる。本家は桁行五間・梁間二間、単層・入母屋造・桟瓦葺の小屋で、北端は低い懸崖。材料はおおむね簡素だが、構成は奇矯、複雑で北端の崖にかかる部分の一間二面は低い舞台造、柱間を開け放って荒木造の高欄を設け、舞台の天井は土天井である。南方へ続く茶室は土足庵式茶席で、中柱と台目切炉を備え、床のほかに付書院(明り床)を設ける。待合および廊下は桁行三間・梁間一間、単層・切妻造・桟瓦葺、本家の南西端より西方に続く狭く長い一屋。西の端一間一面が待合で、廊下は待合の東に続き、本家茶室南隣にいたる。なお文久二年(一八六二)孝明天皇侍従の岩倉具視が攘夷派に糾弾され、辞官落飾のうえ蟄居を命じられ、湘南亭に隠棲している。

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西芳寺の関連キーワードで検索すると・・・
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検索コンテンツ
1. 西芳寺
日本大百科全書
本尊は阿弥陀如来(あみだにょらい)。洪隠(こういん)山と号し、一般には苔寺(こけでら)の名で知られる。『西芳寺縁起』によると、天平(てんぴょう)年間(729~7 ...
2. 西芳寺
世界大百科事典
の有力武将摂津親秀が夢窓疎石を招いて禅苑として中興した。疎石はこのとき寺名を西方寺から現在の西芳寺と改め,ついで寺内の僧侶の行持を厳制し,住持は夢窓門派のみをあ ...
3. さいほう‐じ【西芳寺】地図
デジタル大辞泉
京都市西京区にある臨済宗天竜寺派の寺。山号は洪隠(こういん)山。天平年間(729〜749)行基の開創と伝え、初め西方寺と称した。鎌倉時代には浄土宗寺院であったが ...
4. さいほう‐じ[サイハウ:]【西芳寺】
日本国語大辞典
空海・真如(しんにょ)・源空などが来住。暦応二年(一三三九)夢窓国師が中興し、名を西方寺から西芳寺に改め臨済宗に改宗、庭園を築造した。庭園は五十余種の苔が密生す ...
5. さいほうじ【西芳寺】
国史大辞典
社司摂津守藤原親秀なるものが再興して禅寺に改め、夢窓疎石を請じて開山とした。そしてその寺名を西芳寺と改称した。寺名を改称したのは「祖師西来、五葉聯芳」の義よりと ...
6. さいほうじ【西芳寺】京都市:西京区/谷村地図
日本歴史地名大系
のである。西芳寺では三月三〇日に開山忌が執行される。所蔵文化財に絹本著色夢窓国師像(自賛、国指定重要文化財)、疎石・策彦・隠元らの墨跡、急渓和尚筆「西芳寺縁起」 ...
7. 西芳寺(さいほうじ)【篇】
古事類苑
宗教部 洋巻 第3巻 936ページ ...
8. 西芳(さいほう)寺
デジタル大辞泉プラス
京都府京都市西京区にある寺院、苔寺の正式名。 2015年10月 ...
9. Saihōji 【西芳寺】
Encyclopedia of Japan
Temple in Ukyo Ward, Kyoto, belonging to the Tenryuji branch of the Rinzai sect  ...
10. さいほうじがわ【西芳寺川】京都市:西京区/谷村
日本歴史地名大系
嵐山の北西、烏ヶ岳(標高三九五メートル)付近に源を発し、嵐山と唐櫃越の間の渓谷を東南に下って西芳寺の南を経、松室北河原町付近で桂川に注ぐ。全長一・六キロ(京都市 ...
11. さいほうじこふんぐん【西芳寺古墳群】京都市:西京区/谷村地図
日本歴史地名大系
石室が露出して壊れているものもあるが、概して保存状況が良く、完存もある。古墳の分布は、西芳寺境内にまで広がっており、西芳寺指東庵の枯山水の石組みは、古墳の横穴式 ...
12. あいのしょう【安威庄】大阪府:茨木市/安威村
日本歴史地名大系
た(「蔭涼軒日録」寛正二年一〇月一五日条)。また一部に西芳寺(現京都市西京区)領もあったようで、長享二年(一四八八)に幕府へ提出した西芳寺領所々目録(同日録同年 ...
13. 四阿
日本大百科全書
ある。普通は四方の壁を吹き放つ。南北朝時代ごろ(14世紀)から置かれるようになったが(京都・西芳寺(さいほうじ)の潭北亭(たんほくてい)など)、江戸初期の大名庭 ...
14. あの・あののしょう【阿野・阿野庄】静岡県:沼津市/旧駿東郡地区
日本歴史地名大系
安堵している(「管領細川満元奉書写」永源師檀紀年録)。また「蔭涼軒日録」の長享二年(一四八八)七月五日条には、西芳寺(現京都市西京区)領として「駿河国阿野庄内東 ...
15. あびこごう【我孫子郷】大阪府:泉大津市
日本歴史地名大系
月一九日「又二郎介利銭借状」河野家所蔵文書)。室町時代には山城西芳寺領で、「北野社家日記」長享三年(一四八九)七月四日条に「西芳寺領和泉国我孫子」とある。明応六 ...
16. いずみおおつし【泉大津市】大阪府地図
日本歴史地名大系
統轄する権限のある惣講師職をめぐって、松尾寺(現和泉市)との争いを繰返した。室町時代には山城西芳寺領下条郷・我孫子郷の存在が知られ、市域から和泉市にかけた京都青 ...
17. イタチノシッポ
日本大百科全書
九州に一般的にみられる。この種類は「苔(こけ)園芸」のうえで重要なもので、普通、苔庭に利用され、とくに京都の西芳寺(さいほうじ)(苔寺(こけでら))では、寺の入 ...
18. 一休和尚年譜 1 32ページ
東洋文庫
碧潭は師の夢窓疎石を開山として自らは二世となった。隠逸の風があり、西山西芳寺二世となり、夢窓の晩年から示寂後にまで二十余年この西芳寺で過ごして、後に地蔵院に移っ ...
19. 一休和尚年譜 1 37ページ
東洋文庫
建仁寺はその密教兼学の学風と詩文の質において卓越していた。これに碧潭の隠逸の家風をうける地蔵院・西芳寺および別源門下の金剛瞳下と称される熟練した人文的世界を加え ...
20. 一休和尚年譜 1 271ページ
東洋文庫
「周信」と安名された。絶海は津野氏の出身で、やはり少年時代に上京して天龍寺に夢窓に師事して、西芳寺にも随侍し、夢窓の高弟春屋妙繭に教育された夢窓晩年の弟子である ...
21. 一休和尚年譜 1 275ページ
東洋文庫
場についての自覚がうかがえる偶である。 瑞渓はその数日前に、足利義政の西芳寺の紅葉見物に相伴した後に妙心寺退蔵庵を訪れ、客殿で宗峰妙超と関山の頂相、宗峰作関山号 ...
22. いわひがしごう・いわにし【伊和東郷・伊和西】兵庫県:姫路市/旧飾磨市地区
日本歴史地名大系
進止地」で、後嵯峨法皇菩提所の称名寺(正明寺)に寄進されていた。長享二年(一四八八)には京都西芳寺(現京都市西京区)が伊和東郷の地頭職および六四貫九九四文の年貢 ...
23. うじ‐ちゃ[うぢ:]【宇治茶】
日本国語大辞典
産出する茶の総称。古来、良茶の代表とされている。*看聞御記‐永享六年〔1434〕正月一一日「西芳寺坊主参。〈略〉宇治茶十袋被〓進」 ...
24. おおうちよしおき【大内義興】
国史大辞典
公卿・禅僧・学者らと交際深く、和歌・連歌・禅のたしなみがあった。船岡山戦勝の年十二月二十五日嵯峨西芳寺に親王公卿らと遊び、義興の詠歌が嘆賞されて後柏原天皇の天聴 ...
25. おおたのしょう【太田庄】兵庫県:出石郡/但東町
日本歴史地名大系
「蔭涼軒日録」長享二年(一四八八)七月五日条の西芳寺領所々目録のなかに「但馬国太田庄内中山須地坂門新 弐拾漆貫文」が記される。龍華院領の所在地はわからないが、西 ...
26. 表千家
日本大百科全書
しかし少庵はまもなく子の宗旦(そうたん)(1578―1658)に千家を譲り、洛西(らくせい)西芳寺(さいほうじ)の湘南亭(しょうなんてい)に隠棲(いんせい)した ...
27. 改訂 京都民俗志 76ページ
東洋文庫
また宝珠形の金盥に入れている。神社でも、いまだに香水を出しているところが少々ある。 竜淵水 右京区嵯峨の西芳寺(苔寺)の内にある。 善気水 左京区鹿ケ谷の法然院 ...
28. 改訂 京都民俗志 88ページ
東洋文庫
岩で、つねに注連が張られている。再撰華洛名勝図会などに出ている。 松尾明神影向石 右京区嵯峨西芳寺の庭にあって注連が張られ、前に鳥居が立っている。昔この渓間に光 ...
29. 改訂 京都民俗志 110ページ
東洋文庫
などに数所ある。e嵯峨西芳寺(苔寺)開山堂の右手にある。椅 子のような形で、上部の平らな石が数個隆起し ている。それらのうちに義満座禅石というのも あると ...
30. 改訂 京都民俗志 161ページ
東洋文庫
楊枝加持と称して楊の散杖を用いる。 伏見区日野法界寺の修正会に牛王を柳の枝にはさむ。 右京区嵯峨の西芳寺(苔寺)の庭に柳の大木がある。枯れかけているが、これは丸 ...
31. 改訂 京都民俗志 190ページ
東洋文庫
これに当たるとのことである。 近江草津市草津駅の東に茸神社がある。 苔 嵯峨の松尾大社西南の西芳寺は俗に苔寺と称し、庭園一面が清い苔でおおわれている。同寺は行基 ...
32. 改訂 京都民俗志 227ページ
東洋文庫
いっさい近づけない。 左京区鞍馬山魔王大僧正の神使は、老鯉であると言い伝えられている。 嵯峨西芳寺の湘南亭に、周文の鯉の絵があったが、応仁の乱にまぎれて武士が奪 ...
33. かきのむら【柿野村】岐阜県:山県郡/美山町
日本歴史地名大系
退治して菅谷(現洞戸村)、柿野へ向かって軍を進めている。「蔭涼軒日録」長享二年(一四八八)七月五日条には西芳寺領所々目録のうちに「柿野郷 伍拾六貫二百六十二文」 ...
34. かしわぎのみくりや【柏木御厨】滋賀県:甲賀郡/水口町
日本歴史地名大系
御教書)。その後酒人郷の一部は西芳寺領に編入され、「蔭涼軒日録」長享二年(一四八八)七月五日条に記載される西芳寺寺領目録によれば、寺領年貢一七〇石とされた。西芳 ...
35. かじやむら【鍛冶屋村】兵庫県:神崎郡/福崎町
日本歴史地名大系
となる。飯盛山には中世後藤氏が居城したと伝える春日山城跡がある。後藤氏の菩提寺であった黄檗宗西芳寺があり、延宝五年(一六七七)臨済宗から改宗したという。同寺鎮守 ...
36. かつらがわようすい【桂川用水】京都市:西京区
日本歴史地名大系
下流の諸荘園は松尾社に取入口の設置を認めてもらう代りに、取入口に築堤して洪水が境内に入るのを防ぐこと、西芳寺(現西京区)参詣路に架橋すること等を求められた(東寺 ...
37. かどのぐん【〓野郡】
国史大辞典
北・西部の山麓付近には、古代以来平野・松尾の両社あるいは仁和寺・大覚寺・二尊院・神護寺・高山寺・広隆寺・西芳寺など著名社寺が点在し、南北朝時代以降鹿苑寺・等持院 ...
38. かみかつらのしょう【上桂庄】京都市:西京区/上桂村
日本歴史地名大系
一般名主百姓の名に交じって西芳寺(現西京区)や天龍寺(現右京区)塔頭三会院の名が見いだされ、応永七年(一四〇〇)の下司沽却分の注進状(教王護国寺文書)には臨川寺 ...
39. かみやまだむら【上山田村】京都市:西京区地図
日本歴史地名大系
享保七年(一七二二)の争論では神山境界をもって奥山(西芳寺川上流域)への入会利用を認める裁許が下ったが、その奥山も薪売りらが入山して乱伐したため、西芳寺川の土砂 ...
40. 枯山水
世界大百科事典
毛越寺(もうつじ)庭園池泉(岩手県西磐井郡平泉町)南西の岬付近にある石組み,南北朝時代に入って西芳寺庭園(京都市西京区)洪隠山の枯滝などがその例である。室町時代 ...
41. かんれい‐しき[クヮンレイ:]【管領職】
日本国語大辞典
〓西山西芳寺〓。仍御所御出」*明徳記〔139 ...
42. が【鵝・鵞】
日本国語大辞典
92頃〕音楽「梵王は鵝といふ鳥に乗らせ給へり」*蔭凉軒日録‐寛正二年〔1461〕六月二一日「西芳寺〓鵝之事、命 ...
43. がくでんむら【楽田村】岐阜県:大垣市/旧安八郡地区
日本歴史地名大系
老母に一期分として譲られた中河御厨南方、「蔭涼軒日録」長享二年(一四八八)七月五日条にみえる西芳寺(現京都市西京区)領の「梁瀬郷内楽田村南方 参拾玖貫五百八十七 ...
44. nbsp;きごし【木越】石川県:金沢市/旧河北郡地区
日本歴史地名大系
親秀譲状(美吉文書)に嫡女子幸玉分として「加賀国倉月庄内木越村」、西山穢土寺(現京都市西京区西芳寺)分として「木越村千得名壱町 月峯弐町 善遵田弐町 松尾田陸段 ...
45. きぬがさやまこふんぐん【衣笠山古墳群】京都市:西京区/下山田村地図
日本歴史地名大系
一望に見渡す地蔵院南西方の約九〇メートルの尾根上に、古墳後期の二基の円墳が南北に並ぶ。北には西芳寺川を隔てて西芳寺古墳群・松尾山古墳群がある。二基とも、西側は竹 ...
46. nbsp;きょうと【京都】地図
デジタル大辞泉
山科区の11区。 京都市の賀茂別雷神社、賀茂御祖神社、教王護国寺、清水寺、醍醐寺、仁和寺、高山寺、西芳寺、天竜寺、鹿苑寺、慈照寺、竜安寺、本願寺、二条城、宇治市 ...
47. 空恵[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:0件 【逐次刊行物】:1件 『大谷派学事史の研究 初期宗学界に於ける西芳寺空恵の研究』日下無倫 ...
48. くらつきのしょう【倉月庄】石川県:金沢市
日本歴史地名大系
親秀は暦応二年夢窓疎石を招じて西方寺を中興して西芳寺に改め、ともに中原(摂津)氏の菩提寺として惣領が興行するよう命じていることから、穢土寺廃絶後、寺領は西芳寺に ...
49. 倉月荘
世界大百科事典
通して室町幕府評定奉行の摂津(中原)氏が主要部の領家職,地頭職を伝領した。ただし一部は近衛家,中山家,西芳寺,穢土寺,宝幢寺,北野密乗院などに分割領有されている ...
50. くらはしじまむら【倉橋島村】広島県:安芸郡/倉橋町
日本歴史地名大系
の求めで海賊を退治し、これを産土神の加護と思い勧請したものと伝え、この伝説は桂浜神社や尾立の西芳寺(浄土真宗本願寺派)・本浦の白華寺(真言宗御室派)の縁起類にも ...
「西芳寺」の情報だけではなく、「西芳寺」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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興福寺(国史大辞典)
奈良市登大路町にある法相宗大本山。南都七大寺の一つ。寺伝では「こうぶくじ」という。縁起によると、天智天皇八年(六六九)藤原鎌足の死去に際し、妻の鏡女王が鎌足の念持仏の釈迦丈六像などを祀る伽藍をその山階(山科)邸に設けたのに始まり(山階寺)、その子不比等によって藤原京の厩坂に移遷(厩坂寺)
東大寺(国史大辞典)
奈良市雑司町にある華厳宗の総本山。大華厳寺・金光明四天王護国寺・総国分寺などの別称がある。南都七大寺・十三大寺・十五大寺の一つ。東大寺の寺号は平城京の東方にある大寺を意味し、『正倉院文書』の天平二十年(七四八)五月の「東大寺写経所解案」に初見するが
法隆寺(日本大百科全書・世界大百科事典)
奈良県生駒(いこま)郡斑鳩(いかるが)町にある聖徳(しょうとく)宗総本山。斑鳩寺(鵤寺、伊可留我寺とも書く)、法隆学問寺などの異称がある。南都七大寺の一つ。草創の由来は、金堂の薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう)光背銘によると、用明(ようめい)天皇が病気平癒を念じ
龍潭寺(日本歴史地名大系)
[現]引佐町井伊谷。県道引佐―舘山寺(かんざんじ)線の西側の小丘陵上に位置する。臨済宗妙心寺派。山号は万松山、本尊は行基作と伝える虚空蔵菩薩。元文六年(一七四一)に気賀(けが)関所(現細江町)に差出した御要害村寺院縁寿録(山本家文書)によると、天平五年(七三三)に行基が地蔵寺を開創、のち自浄(じじよう)院
渭伊神社(日本歴史地名大系)
[現]引佐町井伊谷。井伊谷(いいのや)の北西端に鎮座する。社域西側を神宮寺(じんぐうじ)川が半円を描いて流れ、杉・檜・楠の古木が社叢をなす。祭神は品陀和気命・息気長足姫命・玉依姫命。旧郷社。「延喜式」神名帳にみえる引佐郡六座のうちの「渭伊(イイノ)神社」に比定される。
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鶴岡八幡宮(国史大辞典・日本歴史地名大系)
神奈川県鎌倉市雪ノ下に鎮座。旧国幣中社。源氏の氏神であり、鎌倉の町の中心として存在してきた社で、明治の神仏分離までは鶴岡八幡新宮若宮(いまみやわかみや)・鶴岡八幡宮寺とも称した。大分県の宇佐、京都府の石清水(いわしみず)両宮とともに全国の八幡宮を代表
恭仁京(世界大百科事典・日本大百科全)
奈良時代中ごろの都城。現在の京都府南部の木津川市に営まれた。740年(天平12),九州で藤原広嗣の乱が起こったのを契機に平城京を離れた聖武天皇は,伊勢,美濃,近江をめぐった後,12月15日山背国南端の久仁郷の地に至り恭仁京の造営に着手した。翌年11月
遷宮(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
神社で、一定の年数を定めて、新殿を造営し、旧殿の御神体をここに遷すこと。そしてこの新殿の造営を式年造営といい、また仮殿遷宮と対称して正遷宮とも称せられる。伊勢神宮の例が著明である。伊勢神宮に式年遷宮の制が立てられた年次については
長谷寺(日本大百科全書(ニッポニカ))
奈良県桜井市初瀬にある寺。真言宗豊山派総本山。豊山神楽院長谷寺と号する。初瀬寺とも書かれ、豊山寺、長谷観音とも称する。本尊は十一面観音。西国三十三所第8番札所。686年(朱鳥1)弘福寺(川原寺)の道明上人が天武天皇の病気平癒祈願のため、法華説相図銅板(千仏多宝塔を鋳出)
橿原神宮(改訂新版・世界大百科事典)
奈良県橿原市に鎮座。神武天皇と皇后媛蹈鞴五十鈴媛命をまつる。社地は畝傍山の東南にあたり,神武天皇が宮居を営んだ橿原宮の跡という。当地はすでに元禄年間(1688-1704)に神武天皇の神廟を営もうとする動きがあったが,1888年橿原宮跡の考証ののち,民間より神社建設の請願があり
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